贖罪と執行猶予
こんにちは、私はクリスチャンではなくブッティストでありますが「贖罪」という言葉が何だかしっくり来てる側の人間です
そもそもですが「贖罪」って、普段あまり聞かないですよね?ちょっと意味合いをみてみましょう
シンプルに言うと、悪いことをしてしまった自覚を持ってして善行を行うこと的な意味だと解釈しています
私はこの「贖罪」は私たちが生まれた時点で発生していて、それを人生を掛けて精算するものだと心得ています、ずーっと心で思っていたことを今日は気分が乗っているのでいい機会です、言葉にしてみようと思います
生まれながらにして“罪人説”
仏教にはこんな習わしがあります
人間が知らずに、あるいは意識的に犯してしまう罪を大きく3つに分類分けするとこんな感じになります
私たちはこれを日常的に犯しているものです、街をひとたび出れば
まぁざっくりこんな感じです、このくらいの粒度で何気なくやってしまうことも罪に分類分けされるとしたら、結構な頻度でやらかしてる可能性がありますよね
私たちは分かりやすい罪に関しては知識があるので対応がしやすい、ただ細かい粒度の罪に関しては知識が浅いので対応がしづらいもの、これをもって生まれながらにして罪人説を明示したいのです
実際この日々の積み重ねが分かりやすい悪行へと至ったりするので、罪は罪として認識しておくことを自分はオススメします
タイトルの“執行猶予”について
執行猶予については人間が見出した仕組みの言葉、今一度おさらいをしましょう
私たちは生まれながらにして罪人と仮定した時に、人生は「執行猶予」と位置づけることが出来えないだろうか?
誰かの心や尊厳を知らないうちに欠くもの、これが私を含めての人間の本質です
ただ知らない間に罪人に仕立てあげられて知らない間に業を犯すことが逃げられないとしたら、それを改善する策も人生にあって然るべき、それが冒頭の「贖罪」であるとここで提言したい
シンプルに“善いこと”を増やそう
もう、複雑になりすぎて伝えたかった事が伝達できているか非常に不安になってきたので端的に言います
人生はいいこと善いことをすれば“良くなる”し、悪いことをすれば“悪くなる”!
至極当然のことすぎて書くまでもないですが、この事が認識出来ずに引き起こされる最悪な事象が多すぎる
手軽に意志発信できるSNSによるニュースもそう、倫理観が歪んでいるフェイマスたちの行動もそう、棄民として国民を扱っている永田町もそう
自分の今いる地点がどこにあるか、はたまた何処に向かっているか、この日々の確認作業が人生の修着地点を決める
わたしは、大丈夫
なーんてこと有り得ません、大なり小なり私たちは罪人なんですから
さぁ、これからどうする?
極論「自分の胸にきけ」としか言いようがありません、なぜなら人生とは自責の集積であるのだから