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【短編小説】隙間のない家

伯母が死んだ。

母の妹である伯母とは特に思い出とも呼べるような交流も無かったので、両親にそう告げられても、特に悲しいとも思えなかった。真剣な顔で私にそう告げた父の隣に座っていた母も、妹が死んで悲しいとはとても思っていなさそうな顔をしていた。安堵のような、諦めのような、とにかくそういう顔をしていた。
まだ小さかった頃は、伯母はいつも母方の実家にいた。けれど、家族の集まりに参加するわけでもなく、基本的に部屋に閉じこもっていた。飲み物や食べ物を取りに来た時にキッチンで見かける程度。ガリガリに痩せている時もあれば、人相が変わるほどに太っている時もある。子供目に見ても不気味なほどに不安定さが滲み出ていた。
祖父の定年後、祖父母は田舎に移住したので、母の実家には伯母が1人で住んでいた。もちろん、それからは母の実家で親族の集まりが開かれることもなく、もう十年ほど行ってもいなかった。
その古い家で、伯母は孤独死したという。葬儀も執り行われず、私に話した時には祖父母と母だけで火葬した後だった。

「それでね、おじいちゃんが、良かったらあなたに住んでもらえないかって」
そう言った母はなんとも微妙な顔をしていた。
「え、売ったりしないの?」
「うん、おじいちゃんは少なくとも自分が死ぬまではあの家を手放すつもりは無いのよ。あそこはお父さんが苦労して初めて買ったものだからって。維持費と固定資産税用の貯金まで用意しているの」
母方の実家は決して立派でもなければ、由緒正しいわけでもない。数十年前の建売住宅で、近隣にも似た造りの家がまだ残っている。変なものに拘るんだな、と呆れるとともに、一軒家での一人暮らしは美大に通う私には魅力的だ。
「壁を壊したりするのは困るけど、ある程度は好きにしてもいいらしいぞ。週末に俺が片付けしに行くから、一緒に行ってみないか?」

父に連れられて、私は母方の実家、伯母の死場所へとやってきた。
正直、人の死んだ場所に行くことは抵抗があったが、特殊清掃は済んでいて、リフォーム待ちだという。急行も停まる駅からもある程度近くて、一台分の駐車場がある3LDKの二階建ての家。一人暮らしには少し広すぎる気もするが、作品作りには便利そうだ。
磨りガラスの引き戸の玄関を開けた私は、家の中に違和感を感じて顔をしかめた。なんの違和感だろうか。
タイル張りの玄関には造り付けの靴箱があるだけだ。その靴箱の観音開きの扉が、黒いテープで目張りしてある。
「何これ」
私がそれを指さすと、父は困ったように肩をすくめた。
「さあな。なんでか知らないが、家の中の棚はほとんどテープで目張りしてあるんだ。しかも、ああ、これ見てみろ」
父はそう言いながら靴箱の扉のテープをビリビリと剥がし、躊躇いもなく扉を開けた。思わず身構えた私の足元に、くしゃくしゃに丸められた紙が転がってきた。新聞に入っている折込チラシか何かだろう。靴箱の中にはぎっしりと丸めたチラシやら新聞紙が詰め込まれていた。
「伯母さん、病みすぎでしょ」
「こんな感じで、至るとこに丸めた紙が詰め込まれているから、早めに片付けときたいんだ。もしも火事でも起きたら大事になるからな」
そう言って父はトートバックの中からゴミ袋を取り出した。大容量のそれを広げ、軍手と一緒に私に渡す。
家の中は、最低限の家具だけが残されていて、殺風景だった。それなのに、残された家具の隙間という隙間に紙が詰め込まれ、テープで念入りに目張りされている。一体どんな精神状態だとこういうことになるんだろうか。
「伯母さん、この状態でどうやって生活してたの?」
キッチンに残された冷蔵庫を恐々開けると、中には食品ではなく、丸めた新聞紙がびっちりと入っていた。
「さぁなぁ。俺もあんまり会ったことないけど、かなり変わった人だったから」
「そういえば、伯母さんってなんで死んだの?」
そう振り返った私を見る父の顔が、みるみる困惑に染まっていく。
「んん、衰弱死、かな。餓死だっけ」
「え?何?ガシって餓死?」
素っ頓狂な声を出した私。父も腑に落ちないような顔をしている。
今時、一人暮らしとはいえ大人が餓死することなどあるのだろうか?伯母は確か、在宅で何か仕事をしていたはずだ。仕事に熱中しすぎていたとか?
「いやなあ、もう畳も剥がしてあるから分かりづらいけど、2階の自室のど真ん中で、布団も敷かずに横になって亡くなっていたそうだ。その部屋も、内側から窓も扉も目張りしてあったらしい。伯母さん翻訳の仕事を請け負いでしていたんだけど、納期を過ぎて連絡も取れなくて、元請けの会社の人が見に来て通報して警察に発見されたらしい。その時点で死後1ヶ月くらいで、死ぬ数日前に自力で捨てられる家具を全部処分していたらしい。お母さんは自殺だって納得してるけど、餓死なんてわざわざ選ぶもんかねぇ」
父は饒舌に語りながら、紙屑を手際よくゴミ袋に放り込んで行く。
私はそんな父の背中を見ながら、この家で暮らすべきか本気で悩み始めていた。狂気じみた女が1人孤独に死んだ家。隙間という隙間に紙屑の詰め込まれた家は、もう祖父母がいた頃の面影もなく不気味な恐ろしい家に見えた。

結局、私は母方の実家で暮らし始めた。
大学の友人に相談したら、そんなに部屋があるなら一部屋アトリエとして貸してくれないかと頼み込まれたからだった。噂を聞きつけた何人かにも懇願され、一階は私の生活スペース。2階を仲の良い友人たちのアトリエとして提供することにした。流石に賃料は取れないというか、私も祖父に家賃を請求されていないので、友人たちは食料や日用品を差し入れてくれる。課題に追われて、満足にアルバイトもできないので、これには大いに助かった。学期末には大勢で焼肉パーティーやたこ焼きパーティーもできて、私は伯母が不自然な自殺をしたことへの不安もすっかり忘れていた。
「ここって、古いけどあんまり隙間風ないよね」
すっかり寒くなった冬のある夜、2階を使いに来ていた友人がそう感心したように言った。帰ろうと降りてきた時、私がホットココアを作ろうとしていたのを見て、2人でキッチンで一服していた。
「うちのおばあちゃんの家も年代的に多分同じなんだけど、流石に隙間風酷くて底冷えするから、そろそろ建て替えか、リフォームでもって話してるの。でもここ、扉の建て付けも悪くなってるのに、思ったよりも寒くないからびっくりした」
確かに、暖房器具を使っているとはいえ、真冬なのにあまり凍えたことがない。
「この前、風がすごい強い日も、2階にいてもあんまり隙間風無かったんだよね。ああいう日って、おばあちゃんの家すごい寒いのに。あ、ほら見てここ」
ココアを片手に、換気扇の下でタバコをふかしていた友人が、タバコを持ったまま手をキッチンの窓に向かって伸ばした。今は希少価値が上がったらしい昭和ガラスの窓はよく見ると歪んでいて、上にほんの少し、数ミリの隙間が空いていた。滅多に開け閉めしない窓だったので全然気が付かなかった。
「こういうとこから隙間風が入り込んで、家が中々暖まらなかったりするのに、なんでだろう」
そう不思議そうに首を傾げる友人の指先に挟まったタバコ。そこからゆったりと昇る紫煙は、確かに風で揺らいでもいない。
私は、背筋を冷たいもので撫でられたような気がして、肌が粟立つのを感じた。

何かの気配を感じて、私は飛び起きた。
明るい室内。時間は深夜、というよりもう夜明け前という感じだ。私は居間の隣の部屋で、次の作品のラフ案を書いている最中に寝落ちしてしまっていた。折角広い作業スペースが使えるのだから、以前からやってみたかった大きな作品に挑戦しようと思っている。やってみたかったが、いざやると思うと中々アイディアがまとまらず、コピー用紙にスケッチを何枚も書いていた。
今日はもう誰もいないはずなのに、と私は息を殺して2階の様子を伺った。友人たちには合鍵を渡してあるが、いつも絶対に連絡をくれる。スマホを見てみるが、やはり誰からも連絡は入っていない。気のせいか、と肩の力を抜くと、急に尿意に襲われた。ついでにタバコでも吸おうと立ち上がった私は、居間との間にある引き戸が目についた。
白く濁ったガラスが木枠に嵌められた引き戸。そこも、キッチンの窓と同じく建て付けが悪くなっていて、上の方に隙間が空いていた。そういえばここも伯母はしっかりと目張りしていたな、と思いながら引き戸に近付いた私は、ふと違和感を覚えた。
引き戸に手をかけた私の顔の目の前には、幅1センチほどの隙間が空いている。真っ黒な隙間の向こうの居間は、友人が帰った時に節約のために暖房を切っていた。一方で、部屋はパジャマでも過ごせるくらい暖めてある。それなのに、隙間風が全くしなかった。ここより築年数の浅い実家でも、冬は扉の隙間から冷気を感じたというのに、なんでこんなに大きな隙間から何も感じないんだろう。

隙間があるのに、隙間のない家。
伯母は、隙間を恐れていたのではなく、隙間にある何かを恐れていたんではないだろうか。だから、隙間に物を詰め込んで目張りしていたのではないか。

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