【雑記】人生の端っこ
なぜ人は自分のために使う金に消極的になるのか。
わたしはいわゆる「自己肯定感の低い人間」というものではない。基本的にはありのまま、現状の己を蛇蝎の如く嫌っているわけではないし、今の生活は気に入っている。これ以上の野心や身の丈に合わない願望があるわけでもない。
なので自分が楽しむことに罪の意識を感じるような方ではない。寧ろ楽しくありたいと思う。強く。
だが自分のために使う金には「うーん」が付きまとう。
レオパのために総額40万の治療費を払うことには特段何か思ったりしないし、それで二匹の尊い命が助かるならばやすい者だと思う。実際元気になっている姿を噛み締めてわたしは幸せになっている。
しかし40万のパソコンは、これは大変なことだ。いや40万、そうか40万か……ちょっと考えます! となる。結局買ったが。
同じように3万のレオパの追加検査には一も二もなく金を払ったがキーボードは最後まで悩んだ。10万の全身検査も同じく迷いなく支払ったが、己のための5万のスマートウォッチは一年悩んだ。
友人に焼き肉を焼き、うまく焼けたところをあげて、わたしはコゲた肉を食べる。酒の席に同席して、酒が入ってゲラゲラ笑う友人たちの中でウーロン茶を飲む。レオパのために金を出し、母に高価なプレゼントを用意して、臨時収入があれば奢りで一緒にご飯を食べる。
他方ゲーミングチェアが一円でも安くならないかとあらゆる通販サイトを見て回り、ポイント還元の最も多いところでキーボードを購入し、秋葉原へ足を運んで無駄な失敗を防ごうとする。
それら全て、何かを求めているわけではない。強いて言うならレオパが健康に過ごし、友人が楽しそうにしていて、母が嬉しそうにしていることを求めているといえようか。
それらは「求めている」というよりはもっと切実な、「少しでも長くそうありますように」という願いでもあるのだが。
なぜなのか。しかし人生を感じる。基本的には自己中心的で、良い人間ではない。そういう人間でも、小さな円の中にある切実な祈りと願いと、それによって生まれるほんの僅かの自己犠牲によって人生を形作るのかもしれないね。
一生懸命さまざまなサイトを見て「コスパ! ブラックフライデー頼む! 安くなっとらんか!?」と悲鳴を上げている己を客観視し、滑稽がる夜である。