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「写道」という文化・芸術の道を歩む夢を見た。
夢を見た。
憧れや目標のことではなく、寝ている間に見た夢の話。
その夢の中では、自分が「写道」の始祖だった。
茶道や華道、書道といった、歴史ある「道」に憧れがある。しかし、残念ながら自分はどの道も通ってきたことがない。
もちろん、今から学ぶことはできるだろう。
しかし、本当にそれを望んでいるかは別だ。
作法や儀式に憧れはあるが、一歩踏み込む勇気がないのだ。
そんなことを考えていたら、寝ているうちに「写道」を興してしまったようだ。
夢の中は静寂に包まれた早朝。
薄靄に霞む風景を前に、私はそっとカメラを構えている。
朝日が差し込む角度を計算し、光と影の織り成すドラマをフレームに収める。シャッターを切る瞬間、心が震えた。
まるで、秘められた美を解き放つような、高揚感に包まれたからだ。
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その夢の中で「写道」とは、技術や論理を超えた、写真という行為そのものを美学として追求する道のことを指していた。
被写体と向き合い、カメラを手に取る。
構図を決め、フィルムを巻き上げ、静かにシャッターを切る。その一連の動作に、洗練された美しさを見出すわけだ。
技術や論理といった今の時代にあふれる情報のもう一つ上の次元の概念。
一方で、その概念の中で写真をますますつまらなく感じる自分がいた。
不思議なものだ。
型にはまらず、自分の感性を自由に表現するのが写真の魅力だ。
写道の厳格な作法に縛られることで、私は創造性を失い始めていたのだ。
たぶん、これには少なからずSNSの影響があるように感じる。
ああだこうだと写真やカメラに関する意見交換や議論をすることは上達にとってとても大事なことである一方で、いつしか「あれはダメ」「これは違う」といった個人の「正解」の押し付けが降り積もってくる。
写真とは本来、もっと自由なものであるはずのものなのに。
夢の中の「写道」は、私に自分自身を見つめ直させるいい機会になった。
本来の写真の魅力は、技術や形式ではなく、心の奥底に秘められた感情や思いを捉えることにあるのだとあらためて感じる。
最近、少しだけつまらなさ、物足りなさを感じていたけど、この週末は久しぶりに心をワクワクさせてカメラを手に取った。
構図や露光にこだわることなく、ただ自分の心の赴くままにシャッターを切る。
風景、人物、日常…何気ない瞬間が、私の眼差しを通して新たな表情を見せる。
せっかく夢にみた「写道」だから、その精神を少しだけ取り入れ、でも自分自身の感性を大切にしながら、より深い写真の世界を追求していきたいと思う。
この先、100年も200年もすれば、カメラ技術はかつての華道や茶道、弓道のような文化へと昇華していくかも知れない。
そうなれば、カメラや写真を趣味とする人々にとって、「写道」は新たな魅力を感じるかもしれない。
その美しさと自由さ、伝統と革新の融合が、写真をより深い次元で楽しむ手助けとなるとしたら、未来は少しだけワクワクしたものになりそうだ。
「写道」は私の心の中で根付き、今後の写真活動に大きな影響を与える気がする。
もちろん、堅苦しい作法やしきたりの意味ではなく、あくまで自由で心のあり方のままの表現としてという意味で。
この夢が、私にとっての新たな道の始まりとなることを少しだけ期待している自分がる。