
「何のために平和活動してたの」
ウクライナ侵攻から3年
ロシアによるウクライナ侵攻から3年が経った。今も多くの犠牲が出続けていることに心が痛む。アメリカの動きによって、より混乱しているように見える。
「平和活動に何の意味が」
侵攻が始まってすぐの頃、一緒に飲んでた人に聞かれた。
「平和公園のガイドとかしてるけど、戦争始まっちゃったよ。なんのために平和活動してたの。意味あったの?」。
お酒も入っていたし、「侵攻が始まってしまった」という現状を受けて純粋な疑問を口にしただけで決して悪気があったわけじゃないというのは十分伝わった。けど責められているみたいでものすごくしんどくなった。小学生のころから平和公園に来ていた池田は、無力感と、これまでの人生を全否定されたような喪失感が一気に押し寄せてきて、大泣きしてしまった。
湾岸戦争とかシリアとかは始まった頃はまだ幼く、ニュースの世界だった。けど今回のウクライナ侵攻は、平和に関心を持って初めて「戦争の開始」を見たこともあり、池田の中でもかなり大きな出来事だった。
戦争が起こるということの事態の重大さと、自分に対する無力感で悩んでいた日々だった。そこにぶっ刺さるクリティカルな質問だった。
中高一緒に平和活動してた(大学以降も継続している)友だちに電話して、なんで平和活動してるのかを聞いた。「被爆者の人たちが続けてきたものを受け継ぐ責任」と「主張しても弾圧を受けない恵まれた環境がある」からだった。なるほどわからん。綺麗事に聞こえた。
3年が経って
今なら少しだけ意味が分かるかもしれない。
質問者の意図は、「池田の平和公園ガイド活動に、目に見える効果はなく、その活動によって直接戦争は止められないのではないか」「戦争を止められない平和活動が持つ意味とは」という意図だったと理解している。
友人が言っていた「責任」と「環境」は、いわば原動力であって、目的ではない。目に見えるこんな意義、効果があるからしているという理由づけではない。
質問と回答が少し食い違っていたので、その点がその後も池田を悩ませていた原因になっていたのかな、と考えたり。
戦争を止められなかった平和活動の意味
「池田の行ってきた平和活動は、他国の戦争を止めることはできない」という命題は間違いではないし、当然っちゃあ当然なことでもあると思う。ただ、「意味はある」と自信を持って言えるようにもなった。
今回のウクライナ侵攻で、戦争が為政者の一存で始まってしまうことを知った。だからこそ民主主義の尊さと重要性を痛感している。
池田が平和活動をする意味は、平和、人権、民主主義の危機に直面した時に「おかしい」と声を上げる人を増やすためだ。
関心を持たなければ、人権や平和の存在に気づけない。敏感でなければ、それが危ぶまれていることに気づけない。池田は、人権意識と平和への関心を持つ、高める一助になるために、平和公園のガイド活動をしているし、自分自身も学んでいる。もちろん被爆の実相を知ってもらいたいという思いもある。ただそれがゴールではなく、実相を知った先で、「今の世界を見て何を感じるか」「日本にも世界にも人権問題がまだまだある」という感覚につながってほしい。今とつなげてもらうために過去を知ってもらう活動をしている。
そう理解できれば、友人の言う「責任」と「環境」の意味も分かってくる。これまで活動を継続し、池田に平和と人権の視点を与えてくれた人たちに対する責任と、行動に移しても糾弾されない安全が確保された環境があるからこそ、動こうと思える。
戦争を止める活動でもありたい
戦争は為政者の一存で始まってしまい、継続してしまう。止め方はまだわからない。けど、止めるために絶対に必要な要素として「世論」がある。国民からの支持がなければ戦争は継続できない。国際社会での孤立も同じ。そのために声を上げる、おかしいと思える人を増やしたい。
池田の活動がその一助であれば嬉しいし、そうありたいと思う。そのために自分の知識を増やし、自分も声を上げる。戦争をさせないために活動を続けたい。
最後に、ウクライナの即時停戦と、平和と安定を願う。