別れ


5月、僕は段階的に引っ越しをする。

段階的にと言いつつも、明日の第一波で当面必要そうなものは全て持っていくので、ほぼほぼ明日で引っ越しは完了である。残すは冬服や本だけ。

引越しにあたり、色々な別れがあった。ヒトとではない。モノとの別れである。

もともとモノの少ない部屋であったのに、そこからさらに色々なモノをバシバシ捨てた。やる気スイッチが入ると、徹底的にやってしまうタイプなのだ。ジャガイモの皮剥きを頼まれて、中身まで微塵切りにするタイプである。何事も加減が大切だ。

モノを捨てるとなっても、別段僕は感傷的にはならなかった。情緒に乏しい男だ。

しかし、あるモノたちとの別れだけは、ちょっぴり、いや、結構さみしかった。

アウトドアグッズたちである。

僕は小2から高1までボーイスカウトに所属し、登山やキャンプに明け暮れていた。その当時から使っていたアウトドアグッズに、この度別れを告げることにした。かなりボロボロになってきたし、荷物にもなるからだ。

そのアウトドアグッズのなかでも、「捨てる」となって僕の心をグッと揺さぶったのが、飯盒とザックである。

幾度となく、この飯盒で飯を炊いた。「食えりゃあイイ」という男子丸出しの調理精神のもと、作り出された数多の不気味なオカズ。せめてコメだけは旨く炊こう、と、僕は毎回飯盒職人としての調整に余念がなかった。水はコメに人差し指を立てて第二関節のちょい下まで。火力はまずはジワジワと。飯盒の蓋に火挟みを当てて、グラグラ揺れなくなってきたら火から下ろす。おろしたらすぐひっくり返し、底を叩いて焦がさないようにする。

大抵、灰混じりのコメが生まれるのだが、それでも、この飯盒で炊いた飯は格別だった。火力を上げすぎて飯盒が炎の渦に囲まれ、救出することができず、皆で呆然としたのもいい思い出である。


そして、ザック。

このザックとはとにかく色々なところを歩いた。山の中を動き回り。平地を歩き回り。このザックに15kgの荷物を詰めて富士を登った。このザックを背負って100kmのハイクを敢行した。

とにかく、コイツと歩いた距離は計り知れない。コイツを背負うと、どうしようもなくワクワクするのだ。

書いているうちに、また捨てたくなくなってしまったが、致し方ない。もう15年も使ったのだ。新調のときだ。さらばだ、僕の青春よ。

新しいザックを買ったら、色々なところを歩きたいなあ!先代の分まで。


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