1980年、夏 (習作)
夏休みの外房線は、早朝から混雑していた。
陽光が、駅を通過するごとに凶暴さを増していく。東京駅発の快速電車なので、冷房のある車両だったが、座席についた乗客の眠そうな顔や、半袖シャツから伸びる腕を、溶けたプラチナのような輝きが突き刺し始めた。ブラインドが次々と引き下ろされる。
麻由美はつり革につかまって文庫本を読んでいる。会話をしたくないというサインなんだろう。ぼくは白けた思いで、さしたる興味もない車内吊り広告を見上げた。週刊誌が、発足したばかりの鈴木善幸内閣の先行きを憂えていた。どうでもいい話だった。
麻由美は、半年も前に別れた女だ。
なのに、どういうわけか、二人で海へ向かっている。
電話をしたのはぼくだが、海へ行こうと誘ったのは麻由美だ。
「来週からクラブの合宿とゼミの合宿が続くし、8月の後半からはバイト。海へ行くなら今週しかないの」
「いいけど」と答えた。どうしてぼくなんだとは尋ねなかった。もう一度やり直したいという言葉が彼女の口から聞けるのかもしれないと、都合のいい発想をしたからだ。
だが、そんな期待はさっき途中の駅で彼女が乗り込んできた時点で打ち砕かれた。彼女がぼくを見る目はまるっきり他人を見る目。というより、まともに目を合わせてくれない。そして不機嫌にこう言った。
「なんでこんなに混んでるのよ」
挨拶も抜きで、いきなりクレームをつけられたら、ぼくだっておもしろくない。しかも、混雑しているのはぼくのせいじゃない。でも、喧嘩になるのはいやだったから、つとめて明るい口調を保とうとした。
「夏休みだからだろ。みんな海へ行きたいのさ」
「早く並んで、席を取っといてくれるかと思ったのに」
「早く並んださ。でも、先に並んでいる人がすでにいっぱいだったんだ」
「……」
「だから急行の指定席を取ろうかって言ったのに」
「もういい」
「ああ、そう」たぶん、ぼくの顔はこわばっていたはずだ。
麻由美に電話をしたのは、たいした用事があってのことではない。レコードが1枚なくなっていることに気づいた。誰かに貸した覚えがあった。しかし、相手は麻由美ではない。それは確かだった。麻由美とは音楽の趣味がまったく違うので、高校時代からつきあって約2年の間、ぼくのレコードを貸してほしいとか、テープにダビングしてほしいとか、頼んできたことは一度もなかった。にもかかわらず、ぼくは麻由美に電話をしてしまった。未練がましいとしか言いようがないけれど、声が聞きたかったのだ。
電話に出た彼女は、案の定、あなたのレコードのことなど何も知らないと答えた。そうだろうなと思い、それ以上何を喋っていいのかわからなくなって、「どう、最近」などと質問をしてしまったのが失敗だった。
「まあまあよ。そっちは?」
「こないだバイト期間が終わったんで、毎日だらだらしているよ」
じゃあ、海へ行かない? 麻由美の言葉に驚いて、すぐに返事ができないくらい硬直してしまった。だが、すぐに胸がどきどきし始めた。それからの数日は、浮き浮きするような、ちょっと怖いようで、それがまた楽しいような感覚で満たされていた。別れた彼女と、本当に友達づきあいをしようとしている自分は大人なんだ。そう思うと、うれしくさえあった。
けさまでは。
なんて考えの浅い、バカな自己満足に浸っていた人間だったのだろう。そう思い知った。一日が始まってたった数時間で、ぼくは少し賢くなったというわけだ。
ひと言も会話のない車中での1時間あまりは、後悔の苦さを知るには充分な長さだった。赤の他人と一日を過ごすよりも気詰まりだ。コミュニケーションを遮断する人の心をほぐす話術も根気も持ち合わせていないぼくに、この雰囲気は荷が重かった。
次の駅で降りて、反対方向の上り電車に乗っちまおうか。そんな考えも沸いた。
でも、結局は目的の駅に着く前に電車を降りることができなかった。
優柔不断なのもぼくの悪いところだが、麻由美が海へ誘ったのは、何か重要なことをぼくに告げたいからではないかという期待が、どうしても捨てられなかったのだ。
実のところ、ぼくは海水浴の経験がほとんどない。生まれたのは海辺の町で、育ったのは良好なビーチが数え切れないほどある県であるにも関わらず。言い訳をさせてもらってもいいだろうか。理由はちゃんとある。その一、小さな頃は体が弱く、夏でも風邪を引いてしょっちゅう寝込んでいた。その二、小学校を卒業するまで泳ぎを知らず、水を恐れていた。こうして、海水浴にほとんど無縁な珍種の日本人ができあがった。かっこ悪い話だが、事実だ。
かなりさばを読んでカウントしても、きょうが、二度目か三度目の海。不慣れだから、ふつう海水浴に持って行くようなアイテムを、何一つ準備していかなかった。降りた駅から海岸へ向かう家族や仲間連れ、カップルたちの格好を見て、海へはかなりの大荷物を持ち込むのが常識らしいことに気がついた。みんな腕いっぱいに浮き輪やビーチマットらしきもの、ゴーグルとシュノーケル、何に使うのかよくわからない遊び道具などを抱えていた。
ぼくはといえば、タオルと替えの下着が入った小ぶりのナイロンバッグをぶらさげているだけ。水着はジーンズの下に履いてきている。ひどく場違いな身軽さだった。
麻由美も呆れているのかもしれない。横目でそっとうかがうと、田舎道の先にちらちら姿を現し始めた海原に視線を向けていた。宝石を惜しげもなく砕いてまき散らしたように、無数の輝きを浮かべた外房の海だ。彼女はぼくに関心がない。幸せなつきあいをしている頃ならば、「なぁに、銭湯にでも行くつもり?」などと大笑いされていただろう。
砂浜では、麻由美は楽しんでいたようだった。白い花の模様がデザインされた赤いワンピースの水着で、波にもてあそばれたり、サンオイルを塗って横たわったりしていた。ぼくは彼女のやることをただまねしていた。麻由美が海に入ればぼくも海に入り、彼女が肌を焼き始めれば、ぼくもレジャーシートの上に寝そべった。サンオイル貸そうかと聞かれたけれど、断った。日焼け防止に、浜に上がっている間は、パイル地のポロシャツを着ていることにした。
麻由美は、お昼にしようといって小ぶりのお握りがぎっしり詰まったタッパウェアをぼくと自分の間においた。弁当なんか自分の分だけこしらえてくればいいのにと思いながら、ありがとうといって食べた。
電車の切符以外は何もかも麻由美の世話になっている。情けなかったし、恥ずかしかったし、また麻由美に何か言われるのではないかと恐れた。
人任せで、自分の未来を真剣に考えず、楽なほうへ楽なほうへと逃げ回り、好意を示されると思いっきり甘えかかる性格を、半年前、ほかならぬ麻由美から厳しく非難された。僕らが通う大学から駅へ行く途中の喫茶店でのことだった。あのときの耳の痛さは忘れない。
「なぜ夢を持たないの? 自分のことは自分で切り拓く努力をしないと、何一つ始まらないんだよ」
「夢はあるよ」
「小説家っていうんでしょう? それは知ってるわよ。で、書いてるの? できたものがあるんだったら、見せてごらんなさいよ」
「いや、それは……」
「書いてないんでしょ。小説小説って、口ばっかり。それが夢っていえるのかな。誰かが助けてくれるまで、じっと待ってるわけ、自分の人生なのに?」
「時間がかかることなんだよ」
「あのね、私、この冬、スキー場のリゾートホテルで住み込みのバイトしてきたでしょ。同じバイトで、たくさんの男の人といっしょに働いたけれど、みんなすごくがんばっていたのよ。働く目的が『ギターを買う』とか、『クルマの免許を取りたいから』とか、なかには単に『生活資金を稼ぐため』という人もいた。小説家になるっていう夢に比べたら、ずっと小さな目標かもしれない。でもね、みんな目がきらきらしていて、自分のために一生懸命汗を流していたよ。そういう男の人を見ていて、あなたとはずいぶん違うな、どうしてあなたがあんなふうじゃないんだろうって、ずっと考えていたんだよ」
「そいつらだってバイト学生だろう。ぼくとたいして立場は違わないじゃないか。金がないから働いているだけじゃん。それがなんでそんなに偉いんだ」
「だって、あなたは何もしないじゃない。お金がなくても、ただ『ない、ない』って言うだけ。局面を変えようともしない。当たり前のことでも一生懸命やっている人とは違う。私は、そんなあなたを尊敬できないの」
こうして、ぼくたちは別れることになった。いちばん情けなかったのは、そこまで言われながら、コーヒー代を立て替えてもらわなければならなかったことだ。腐るほどヒマのある大学生だというのに、夏と冬の長期休暇以外は、アルバイトというものをまったくしなかった。理由? 働くのが面倒。以上。麻由美と一緒にいる時間をできるだけ削りたくないという口実を掲げていたが、そんな生活態度がいかに軟弱見えるか気がつかないほど、ぼくは労力を費やすのが嫌いだった。相手に合わせるといえば聞こえはいいけれど、麻由美には、単に甘ったれなだけだと見抜かれていたようだ。指摘はすべてがもっともだった。正論の矢が、ぼくの胸をぐさぐさとえぐった。自分の怠惰さが人を怒らせるレベルにあるとは思いもよらなかったのでショックだったが、すべてを認めるしかなかった。
ぼくは誰かがうまい話を持ってきてくれるのをひたすら待っている男だった。『待ちぼうけ』という唱歌に歌われる農夫にそっくりだ。自分の目の前で、ウサギが切り株に当たって転がるに決まっている。何の根拠もなく、そう信じていた。
あれからわずか半年だ。いままで自分を甘やかしていたぼくが変われるほど、たっぷりの時間ではない。
しかし、外房の浜で午後3時頃まで過ごす間、麻由美はぼくに対する不満をまったく口にしなかった。
なぜかといえば、ぼくらが無関係な他人になったからだ。あらためてそう気づかされると、がっかりしたくはなかったが、少なからず脳天気な期待を抱いていた分、やっぱりがっかりしてしまった。そして、がっかりしている自分が嫌になった。あのときの自分は間違っていたと麻由美が詫びを入れるんじゃないか、なんて、よくもそんな発想ができたものだ。自分は何一つ変わっていないのに。
ぼくらは海に入っては、強烈な日差しと潮風で肌を乾かし、この夏流行のライトビールを海の家で買い、のどを潤しながら、口から出たとたんに風でかき消されてしまうような当たり障りのない会話を重ねた。うち解けた雰囲気のようだが、実態は違う。たとえて言えば、普段はよそよそしい劇団員が二人芝居を演じているような感じだった。ぼくが冗談を言うたび、麻由美は「ばーか」とあざけった。口元に薄笑いを浮かべ、本気で蔑んでいるような「ばーか」だった。麻由美のそんな表情を初めて見た。麻由美はすっかりぼくの知らない人になってしまった。
そうか。ぼくはふと思った。麻由美は「ばーか」と言いたいために、ぼくを海へ誘ったんじゃないか。
それ以外に、ぼくにふさわしい言葉はこの世にない。
浜から引き上げ、駅へ向かう途中の歩みは、来るとき以上に重苦しかった。芝居の幕は、もう降りたのだ。自分がどういう役を求められているのか、最後までわからないままだったけれど。
運のいいことに、上りの電車も快速で、冷房が入っていて、しかも空いていた。
向かい側のシートで、車窓をぼんやりと眺めている麻由美に、「本読んだら?」と言った。皮肉のつもりではなかった。会話に疲れ果てていたので、麻由美は麻由美の世界に没頭してほしかったのだ。しかし、彼女はかぶりを振った。
「いい。目がちかちかして。それより眠い」いうとおり、じきにこくりこくりと船をこぎ始めた。規則的なリズムは果てしなく続きそうに思えたが、彼女が降りる駅に近づくとぴったり止まった。
そつがなく、合理的。性格が居眠りのしかたにも出ていると思った。もともと、ぼくとは相容れないタイプなのだ。だらしのない人間と出会うと、世話を焼きたくなる人と、苛立ってしまう人の、二種類あるとすれば、彼女は確実に後者に属するに違いない。
「ずっと起きてたの?」
「うん」
「よく眠くならないね」
「そうだね。どうしてかな」
「そのジーパン」麻由美がぼくのジーンズを指さした。示されたところへ目をやると、うっすらと油染みができている場所だった。ぼくにしては珍しくアルバイトに没頭したときにできた染みだ。デパートの流通センターで段ボールのケースを来る日も来る日も運んでいるうちにこうなった。
「覚えてるよ。前からよく穿いていたやつだね」そう言うと、麻由美はかつてぼくがよく知っていた笑顔を見せた。最後の自分をいい顔で記憶に残してほしかったのかもしれない。
快速電車が減速し、駅のホームへ滑り込む。麻由美は「じゃあね」と屈託のない調子の挨拶を残し、立ち上がった。
ぼくは手をちらっと振り、「元気で」とだけ返した。後ろ姿を目で追ったりはしなかった。どうせ麻由美は振り向かない。
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