ある夜の男と女 (習作)

男が地下鉄の駅に向かっていると、交差点にあるデパートの建物の陰から、ふいっと知った顔が出てきた。街灯やネオンで照らされているとはいえ歩道は暗く、顔をうつむけていたのでいっそうわかりにくかったが、体型と歩き方で彼女だと気がついた。
「久しぶりだね」
 と彼女は言った。
「しょっちゅう顔は合わせているんだけど。あんた、会社に来てもすぐ帰っちゃうから」
 フリーライターである男は、彼女の勤めるデザイン会社から仕事をもらっていたのだ。
 近くで少し飲むことにした。
 一枚板のオークだと思われる長いカウンターの中央に座り、男はバーテンダーのひとりに薄めの水割りを頼み、彼女はドライマティーニを注文した。
 ピアノソロのジャズが、ごく控えめな音量で流れていた。
 天井のダウンライトが、ちょうど目の前のグラスを照らしている。溶けたロックアイスのバランスがくずれ、琥珀の液体のなかですいっと回った。

「もう駄目だよ、ウチの会社」
 しばらくして、カウンターに頬杖を突いた彼女はそう言った。
「どんどん悪くなって行く。フォーマットをコピー・アンド・ペーストして、はいできあがり。代わり映えのしないデザインばっかり。ああ、もうあれはデザインじゃないな」
「もう、辞めちゃえば?」
 彼女は肩をすくめ、口をねじ曲げて薄く笑った。
 責任感の強い性格だった。社員の定着率が低い会社にあって、彼女は社長の次に勤続年数が長かった。彼女が辞めると、スタッフは若いアシスタントか、あまり技量に信頼がないスタッフばかりになってしまうのだ。
「だけどさ」
 と男は言った。
「簡単に会社を辞めないのは、社会人として正しい態度だと思うけれどね、おまえは自分がデザイナーだということも考えないといけないよね。デザイナーにはなにがいちばん必要かといえば、やはりデザインの能力だ。いまいる会社では、おまえの持ち味を十分に伸ばせない。もう十年以上も勤めているんだから、はっきりわかっただろ」
「うん、まあね」
「品質のいいデザインを提供することが、デザイナーの使命であるわけさ」「うん」
「会社のことより、自分のためを優先的に考えていい職業だと思うんだ」「自分のため、ね」
「そうだよ。この仕事で食べていくなら、伸びる余地のある素質は全部伸ばしきりたいね。まあ、デザイナーに必要なセンスは、だいたいが生まれつきのものに近いから、伸ばすというより、活かすということかな。そうやって実績をつくっていくんだ。なんといっても、人から信頼されるとしたら、勤続年数よりも実績だからね、この世界」
「そういうこと、私がいままで考えなかったと思う?」
「考えたか。まあ、だろうな」
 彼女は二杯目のマティーニにとりかかっていた。
「いま、あんたが言ったでしょ、センスは生まれつきだって。センス以外の、たとえばスポンサーとの接し方とかさ、印刷屋さんとのつきあい方、あんたのような外注スタッフの使い方────そういう外っかわの部分は、どこの会社へ行っても基本的には同じじゃない? あとはセンスの問題。要は自分の心がけ次第ということにならないかな」
「それはおまえの会社のOBであり、いまでも取り引きのあるおれの前では、説得力のない考え方だね。心がけだけでは打開できない局面があるんだ」
「要は、染まらないように気をつければいいんだよ」
「でも、入ってくる仕事は決まっているだろう。センスは磨き続けていないと輝きが鈍るんだぜ。第一、おまえが辞めたいと思うようになったのは、コピー・アンド・ペーストばっかりになったからだろ。感覚が物を言うような、腕の振るいがいのある企画がらみの仕事が激減したからじゃないのか」
「私の売上は、会社全体の約三分の一なのよ。私が辞めたら、その分の儲けがなくなってしまうかもしれないのよ。そうしたら、あの会社は確実に潰れるわ」
 ふたりはしばらく沈黙した。静かにグラスを上からのぞき込んでいた。
「辞められる? それでも」
「仕事を持って出なければいいだろう。おれだって、会社を辞めるときは担当を全部降りた。辞めてからスポンサーに接触することもしなかった」
「あんたが担当していた仕事、その後全部無くなったよ。他のプロダクションに取られて」
「…………ああ、そういえばそうだったな。あれには少し驚いた」
「私の場合も、同じことだよ。自分の仕事を置いていったとしても、全売上の三分の一を維持できるほどのスタッフは残っていないんだから。ますます、ひどい会社になっていくだけの話」
「辛辣だな」
「本当のことだから」
「そんなレベルの低い会社なら、遅かれ早かれ淘汰されるわけだ。おまえは臨終を見届ける気なのか」
「それもまた経験のひとつよ」
「おまえには停められないと思うよ」
「ほんとにね。いまの社長の方針だと、ゆっくり自殺しているようなもんだわ」
「カスみたいな仕事を拾い歩いているような会社に、しがみついていることはないだろう」
「あんただって、そのカスをもらっているくせに。あんたが依頼を断らないから、カスが減らないんじゃないの。自殺に荷担しているわけよ」
 女は笑って、飲み物のお代わりをした。
「ね。あんたも、少し考えたら」
「なんのこと?」
「仕事よ。選んでないでしょ。不景気なのはわかるけど。私はいまのままでも生きていける女。でもあんたは志を捨てちゃだめ。かっこよく生きてよ」「かっこわるいか?」
「いまは少しね」
 女は頬に手を当てた。
「でも、泥道に耐えている苦闘ぶりは悪くないかも」
「夢を語るだけじゃ生きていけないからな」
 女は愉快そうに笑った。
 ふたりは終電の出る少し前にバーを出て、じゃあまた、と言って背中を向けた。
 男は言った。
「おれは、まだ諦めてないんだぜ」
 女は振り向いた。
「どっちを? あんたと事務所をつくること? それとも、いっしょに暮らすことかな」
 男は苦い顔をして見せた。
「やめろって。何年前の話をしてるんだ」
「あれは一時の気の迷いだったってわけ?」
「そうは言わない。けれど若かったことは確かだな」
「三十女とは暮らせないか」
「女は三十を越えてからが面白いんだって、誰かが言ってたぞ」
 女はかすかに笑みを浮かべ、確かに退屈はしてないわね、と言った。
 かつて、男と暮らす生活に縛られたくないからとプロポーズを断った女が、いまは会社にからめ取られて身動きができなくなっている。しかし、そのしがらみを受け流そうとつとめる女の姿は、なかなかかっこいい、と男は思った。
 女は手を振って、地下鉄の階段を降りて行った。

 





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