忖度せずに生きることは難しい。特に、自分に損得がない事象については

”忖度”という言葉が、少し前に流行りましたね。
Wikipediaによると次のような意味合いで使われるようです。

忖度(そんたく)は、他人の心情を推し量ること、また、推し量って相手に配慮することであるが、特に、立身出世や自己保身等の心理から、上司等、立場が上の人間の心情を汲み取り、ここに本人が自己の行為に「公正さ」を欠いていることを自覚して行動すること、の意味で使用される。「忖」「度」いずれの文字も「はかる」の意味を含む。2017年には政治問題に関連して広く使用され、同年の「新語・流行語大賞」の年間大賞に選ばれた

私自身は、あまり忖度をする人間ではないと思っていました。

相手が上司だろうが、それこそ社長であっても、自分がやりたい・やるべきと思っている(またはその逆も)については、しっかりと主張して、「それがなぜ会社にとって良いのか」を説明することを、厭わずやってきました。ときには、「あなたは、もう少し上司の(個人的な)事情も理解してあげて欲しい」と言われるくらいには。

しかし、そんな自分が急に自信がなくなる出来事がありました。

こんな折なので、オンライン会議をやっていたのですが、正直案Aでも案Bでも、あまり私や自分の部署には関係のない選択肢。会社にとっても、まあどっちでも、(ちゃんとやれれば)成果はでるだろうという案件。

そんな時に意見を求められた私。上記の通り、自分への損得がほぼなかったので、ついつい、うるさ型の上司が主張している案に同調してしまいました。

「あれって忖度だったのかも」と後から思うくらいに、無意識でした。
少し自己嫌悪をしながら、ふと名作映画を思い出しました。

十二人の怒れる男

この映画は、1950年代の映画で、様々な「この映画は絶対見るべき」的なランキングの常連作品。舞台はほぼ一室のみで描写される法廷サスペンスで、登場人物たちにも、ほぼ名前が無いのに、心理的な描写が凄く圧倒されます。

また、2000年代になってリメークされたり、「12人の優しい日本人」の様にパロディ化されたりと、後の作品にも大きな影響を与えている名作中の名作です。

よく、この映画は、米国式の陪審員制度のメリット・デメリットを語るのに使われたり、「12人の陪審員のうち、1人のみが無罪を主張する」というシチュエーションから、”少数の正義”の重要性を語るのに挙げられます。

ただ、今回は少し目線を変えて”忖度”という目線から、考えていきたいと思います。
トランプ大統領を見ていると、米国人に”忖度”なんて言葉は無縁のようにも思えてきますが、少なくともこの映画の中では”忖度”をする米国人が複数出てきています。

みんなが陪審員という立場なので、誰が上・下という関係性ではないはずですが、やはりそこは人間。自己主張が激しい人が、”上”になり、そこに意見を合わせて、同調してしまう人が出てきてしまいます。

もちろん、全ての人が、「自分はこう思う」「いや、自分は違う意見だ」と意見を戦わせるのが良い議論だとは思いますが、人の性格によってもそれは難しいもの。
しかし、では何でも「上の人間に従います」で良いかというと、それではいけない。そんな人に、この映画は新たな選択肢を示します。

「自分は、ここが分からない」

「案Aか・案Bか。あなたは、どう思うんだ?」と聞かれた時に、「誰々が、こう言っているから」以外の根拠が見つからないときに、「なぜ自分が判断できないかを示すこと」が、忖度せずに議論に参加する最良の方法ではないでしょうか。

早く議論を終わらせる人にとっては、その質問は面倒なものかもしれません。しかし、実際にその質問に回答しようとすることで、自分の意見にも誤りや、改善すべき事項が見えてくるものです。

それこそが、本当の意味で「議論をする」ということではないでしょうか。

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