「何事にも効率的に」によって得たもの・失われたもの(荘子)

毎年、これくらいの時期になると会社ではチームの目標とメンバーの目標を立てて、そのために1年間何をしていくかといった計画を立てていってます。

とはいえ、営業部の様に「今年の目標は、売上1億円です」とかいうのは無いので、「データサイエンティストとして新たなスキルを身に着ける」とか、「分析でのミスをなくす」といったものが多いです。

そんなときに、必ず上げる目標の1つが「”効率的に”分析を行う」というもの。
これまで何の疑いもなく、同じアウトプットを出すのであれば、そこに掛かる時間は短い方がいいと思ってきました。

それは仕事だけでなく、プライベートや学習、娯楽においても。

楽しむために観ていたはずの録画した映画も、倍速でみてしまったりなんてことも。

そして、そんな効率的に進めて空いた時間に何をするのか?

また別の仕事を入れる。そして、それを効率的に行う努力をして、また・・・。

結果として、アウトプット量は数年間で10倍以上になったので、それはそれで素晴らしいことなのですが、何か心に違和感のようなものを感じていました。

そんな時には、昔の偉人に頼ろうと、開いた本がこちら。

荘子

荘子は、以前取り上げた老子とセットで、老荘思想と呼ばれることも多い古代中国の思想家です。
老荘思想は、一言でいうと”無為自然”。「何事にも自然体で生きなさい」といったところでしょうか。

ただ、老子は次の言葉の様に「道」を拠り所にしているのに対して、

内面を充実させて、外からの刺激を追い求めない
欲望を捨てて、「道」にのっとるのである

荘子は、「道」も出てくるのですが、あまりに全体的に漠然としすぎていて、捉えようがないところが、少し苦手だったりします。

しかし、そんな荘子だからこそ、自分のこれまでの「何事にも効率的に」という考え方への違和感に何かヒントをもらえるのではないか。

そんな荘子で最初に気になったのが次の言葉。

大きな木があるなら、役立たずなどと嘆くことはないではないか(中略)世間の役に立たないからこそ、伐り倒される心配もないし、危害を加えられることもないのだ

自身を高めよう、高めようと努力する。

それが良いことだとこれまで信じてきましたが、それによって目に見えない枷に囚われてしまっていないか。

その枷によって、自分の身を亡ぼすようなことがあってはいけない。

そんな戒めにも似たメッセージが込められています。

そして、効率的な生き方についても、濁流に例えられて

濁流に気をとられて、澄んだ淵に身を映すことを忘れていたのだ

と言われます。

それでなくとも、入ってくる情報が多く激流の様な世の中。
その激流を、更に効率的に生きようと、濁流の様になっていく。

そんな濁流から一歩引いた淵で、自分を見つめ直す。

新型コロナの影響で、どこにも出かけられないゴールデンウイークには、
敢えて非効率になる時間をもって、自然体で生きてみたいと思います。

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