旧伊藤伝右衛門邸を訪れて
りんご狩りのあとは、旧伊藤伝右衛門(でんえもん)邸に向かいます。
明治、大正、昭和にかけて、福岡県の筑豊地域は、石炭供給日本一の場所でした。当時「筑豊御三家」と呼ばれた、麻生、貝塚、安川に続いたのが、炭鉱王、伊藤伝右衛門です。一代で巨万の富を築き上げました。
最初の妻を失った伊藤伝右衛門は、1911年に伯爵柳原前光の娘、燁子(あきこー白蓮)と再婚します。この時、伊藤伝右衛門50歳、白蓮(びゃくれん)25歳でした。
NHKの朝ドラ「花子とアン」で村岡花子の女学校時代の友達が、白蓮でした。仲間由紀恵さんが白蓮役を演じていました。伊藤伝右衛門役は、吉田鋼太郎さんでした。
伊藤伝右衛門は、若い白蓮のために、日本建築の粋を集めて自宅を改築します。それが旧伊藤伝右衛門邸です。
こちらの門は、福岡市天神にあった別邸の門を移築したものです。入口右側の文字は、同じ飯塚市出身の元総理大臣麻生太郎氏が書かれたそうです。
玄関に向かいます。
建物延べ床面積約1020平方メートル(約300坪)、敷地面積約7570平方メートル(約2300坪)の豪邸に入ります。部屋数は25もあるそうです。
入ってすぐ左側に応接室がありました。
応接室には通常立ち入りできませんが、今回、旧伊藤伝右衛門邸開館15周年記念の企画展だったので、入室できました。
アールヌーヴォー調のマントルピース(暖炉の周りの飾り)が目をひきます。ひし形のステンドグラスは、イギリス製だそうです。
この日は、偶然、15周年記念トークショーが行われていました。トークショーのゲストは、白蓮の孫の宮崎黄石氏、村岡花子の孫の村岡美枝氏(翻訳家)、同じく孫の村岡恵理(アンのゆりかごの著者)でした。観覧予約はしてしなかったのですが、席に余裕があるようで係の人に勧められて参加することになりました。
広い座敷からは立派な庭園が見えました。
広いというか、個人の庭とは思えない豪華な庭園でした。
達筆でした。指輪も展示されていましたが、かなり細かったです。
豪華な振袖も展示されていました。
2階の白蓮の部屋に向かいます。
白蓮のために増築された2階の部屋。2階にはこの一部屋しかありません。そしてこの眺めです。また部屋の内部には、京都からわざわざ宮大工を呼んで、技を尽くさせたそうです。
右側にも廊下があるので、さらに右の景色も楽しめます。この美しい庭が一望できる、一番良い部屋だということが分かりました。白蓮は、毎日この景色を眺めながら過ごしたのですね。
これほどの豪邸に美しい庭や着物に囲まれながら、白蓮の心は暗かったようです。掛け軸に短歌が書かれていました。
「朝化粧(あさけはひ) 五月となれば 京紅の 青き光も なつかしきかな」
五月の光の中で、朝化粧した時に、ハマグリの中の口紅に、なつかしい京都を飯塚からしのんで詠んだ歌だそうです。
この大邸宅は、新飯塚駅から遠賀川沿いに北上した長崎街道沿いに位置しています。トークショーでは、白蓮が何度も遠賀川に身を投げようと思ったと聞き、悲しくなりました。いくら伝右衛門が改築しても、美しい庭園を見ても、白蓮の寂しさは消えなかったようです。
2階から降りて、蔵の中の展示を見ました。
白蓮の父柳原前光の妹愛子が、大正天皇の生母となり、白蓮は大正天皇のいとこにあたると書かれています。
トークショーでも、何度も白蓮が大正天皇のいとこという話が出ました。
伊藤伝右衛門には、別府と福岡市天神にも別邸がありました。福岡と別府の別邸を舞台に、白蓮は上流社会の文学サロンの中心となり、詩集、歌集、戯曲などを次々に出版し、「筑紫の女王」と呼ばれていたそうです。天神と別府の別邸は、屋根を赤銅で葺いたことから、赤銅(あかがね)御殿と呼ばれていたそうです。
白蓮のデビュー作の歌集の挿絵を手がけたのは、竹久夢二です。白蓮の写真を見た時、夢二の描く女性は、白蓮そっくりだと思いました。白蓮は、大正三美人の一人だそうです。
廊下に出ると九州初の水洗トイレもありました。
廊下の写真は撮っていませんが、長さが50mもあったそうです。この時は、次から次に部屋や景色を見ることに夢中で、廊下の長さに気が付きませんでした。
ダイニングも洋風に改装されました。庭が良く見えます。
ダイニングの横の戸棚の絵には、蝶々が飛んでいました。白蓮の部屋の天袋にも蝶が描かれていました。白蓮のために朝食もパンに切り替え、はるばる遠くから取り寄せていたそうです。伝右衛門の白蓮を想う気持ちが家中に溢れていました。
外に出て、庭に向かいます。
フジバカマが咲いていました。この日の朝、幻の蝶「アサギマダラ」も飛来していたそうです。さらに進んでいくと、庭園の説明がありました。
白蓮は結婚10年後、ある日突然に伝右衛門への絶縁状を朝日新聞に発表し、東京帝国大学生の宮崎龍介と駆け落ちをしました。白蓮36歳、龍介27歳でした。龍介が白蓮の戯曲を本にするため、別府の別邸を訪れた時、二人は出会ったのでした。
封建制の色濃かった100年以上前の時代、社会に一大センセーションを巻き起こしたようです。
その時代に絶縁状を出し、駆け落ちをするなど、よほどの覚悟がないと出来なかったと思います。龍介に宛てた手紙も見ましたが、情熱的で強い心の持ち主だったことが分かります。
その後宮崎龍介との間に長男と長女も生まれ、なんとか落ち着いたようです。龍介が病(結核)に倒れた時は、一人で文筆活動をしながら生計を立てました。太平洋戦争が終わる直前に、長男が戦死するという悲しいこともありました。
一方、伊藤伝右衛門は、絶縁状に対し、「末代まで一言の弁明も無用」と口を閉ざし、財界人として精力的に働きます。嘉穂銀行頭取や博多株式取引所理事になり、また女学校創立に資金援助をしたり、高等女学校のもとになる学校を作ったり、奨学制度なども設けました。
1953年10月、約30年ぶりに福岡赤銅御殿跡を訪れた白髪の白蓮が詠んだ歌です。
「わかひ日 わが思い出のふる里よ 夢もなみだも 今はこいしき」
久しぶりに見た福岡は、白蓮のふるさとになっていたのですね。つらいことが多かった10年、しかし伝右衛門との結婚がなければ、生涯の伴侶龍介に出会うこともなかったのです。すべてが繋がっていたのです。
来年の1月25日からNHKの地上波で夕方から「花子とアン」の再放送が始まるそうです。もう一度、じっくり見たくなりました。
長いブログ、最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
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