天上道
誰にも見つからずに冒せる罪なんて存在しない
だって自分がその罪を見てるから
でも無かったことにはできる
自分がその罪を誰にも言わなきゃ良いんだから
ただあくまで無かったことは無かったこと
その罪は無くなったわけじゃないからね
天上道の【蔓蕎麦】という曲は
そんな風な生き方をした人間の曲です
※記事内容は全文無料で公開しています。
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【蔓蕎麦】
三宝 帰依し奉るべし
衆生共に見聞し授受する事を得たり
まさに願わくば
自ら仏に帰依し奉る
自ら法に帰依し奉る
自ら僧に帰依し奉る
まさに願わくは衆生とともに
大道を体解して 深く経蔵に入り 大衆を統理した
『三帰依文』というものを弟子と共に唱えているシーンです
三帰依とは「お釈迦様の教えに従いますよ」と誓いを立てる時に唱えます
天上道はかつて、弟子を従えた僧侶でありました
この命辿り着いた 穢れなど無き無色の空
迷いも憂いも全てを捨て去って
孤独を身に纏い
犀の角のように ただ独り歩むべし
三界という三つの世界があります
『欲界』『色界』『無色界』
天界の最上層が無色界と呼ばれます
この僧侶は修行の末に天に行ったのです
最古層の仏教の教典『スッタニパータ』というものがあります
お釈迦様の教えが載る書物です
これはそのスッタニパータの中の有名な言葉になります
「嗚呼 安寧は何処に在るものか?」
この世は欲と苦に満ちている
無明である限り繰り返す 過ちと恐怖に
「飲まれて往く?」
だから人は皆 遠ざからん
生老病死 愛別離 怨憎会 求不徳 五蘊盛
況んや我が身においてをや
(絞め殺しの無花果に花求める凡夫の愚かな姿)
救いを与え教え説く
そして知る『全ては虚妄だ』と
他の木に絡まり成長を続け、やがてその木を絞め殺すように枯らしてしまう『絞め殺しの木』という性質を持つ無花果があります
書いて時の如く花を咲かせてくれない無花果の木に絞め殺されながら、それでもなお無花果に花が咲く事を求め続けるような
『叶わないものを求めて身を滅ぼす愚かな人間』を諭しながら
そのような人間が居なくならないさまを見て、『正しい事なんてこの世には存在しない』と知る
嗚呼まさにその言葉 仏陀の言葉(スッタニパータ)
法(ダンマ) 理解した衆生は黙り耐え忍ぶ
今世来世捨て 深く土中
苦悩の矢を抜き去る
「仏陀の言葉を真に理解した」と言う僧侶
そして現世の迷える人々を救う存在になる為に、今世も来世も捨て土の中に入る
すなわち『即身仏』になる為の修行を始めます
※曲中の『即身仏』とは
僧侶が生きたままミイラになり、永遠に人々の為に祈り続ける存在になる事
その為に何年も絶食をし、水を口にせず、漆を飲み胎内から殺菌をし、僅かな木の皮や木の実だけを食して
生きたまま全身をミイラ状態にするのです
そして自ら棺に入り、そのまま土中に埋められ
成仏するまで念仏を唱え続けるのが修行の工程になります
穢れなど無き 至純の池
揺蕩う蓮華をこの手で折り取った
華を愛でる心 断ち切る
蛇が皮を脱ぎ捨て去るように
迷いや憂いだけでなく花に奪われるような心も断ち切る
そして天上道になった僧侶
(おてらの おしょうさんが
かぼちゃの タネを まきました)
鈴鳴る虚空 掘り起こした
土の中で成仏を待ち即身仏に至る最期の修行中は
いつ成仏したかを弟子が確認できるように
地中と地上を鈴で繋ぎます
弟子が鳴らす鈴が聴こえれば、修行僧も「まだ生きています」と鈴を鳴らし返答するのです
するとなぜか、鈴を返したのに土を掘り起こされました
(めが でて ふくらんで)
後光が差す 伸びた指先
(はなが さいたら かれちゃって)
蔓蕎麦を落とした
棺の隙間から光が差します
そしてその中から指がこちらに伸びてきました
僧侶から見れば、
それはまるで自分を迎えに来た後光を浴びるお釈迦様の救いの手に見えました
その手は『蔓蕎麦』という小さな花を僧侶に与えます
お釈迦様から頂いた花ですから、僧侶は有り難く頂戴いたします
これから成仏する身ですから、
懐でなくその花を口に含み自身のものとします
突如に走馬灯 汝拝む有象無象
心の底笑う不浄の情 染まる百合の群像
蛇の章
その瞬間、僧侶の中の何かが弾けます
自身に手を合わせ拝む人々
それを何故か心の中で笑っている自分自身
仏陀の教えが走馬灯のように頭を駆け巡ります
蔓蕎麦が溶ける胎内
生きたいと願う大罪 冒してはならぬ 嗚呼…
「何が真か?地獄はこわいか?」
お釈迦様から頂いた蔓蕎麦の花が体の中で溶けていくたび
死にたくないと心が叫ぶ
「何が真か?地獄はこわいか?」
自身の心が僧侶に問いかけるが、僧侶は耳を塞ぎ「嗚呼」と叫び心の声を掻き消した
聞き難し言葉が穢れなどなき筈の我が身の
心の奥の水仙を揺らした
いつかこの蓮華も朽ちていく
そしてまた六道を廻る
そして目を開けばそこは極楽でした
正確には、極楽によく似た『天上道』の世界でした
この頭に咲く蓮の花もいつか朽ちる
それは『五衰』がいつか訪れるということ
そうすればまた六道を廻らなければならない
即身仏にまでなった自身が
輪廻の輪から抜け出せなかったという事は
天上道にとって耐え難い恥であり苦しみである
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ここまでが『天上道』の語る【蔓蕎麦】という物語です
この曲は天上道の視点から歌われる曲なので
天上道の言葉を全て鵜呑みにした時の解説文になりますが
『蔓蕎麦を食べた僧侶は何故「死にたくない」となったのか』
『なぜ即身仏にまでなったのに六道に縛られているのか』
は天上道の口から話すことがありませんでした
これ以降は実際に起こった事の解説になりますが
ウミガメのスープのような水平思考クイズが好きな方は是非ここまでで曲を聴きながら考察してやってください
知識があれば導く事のできる曲にはなっています
ただ難問ですし
何より作曲家として『天上道』というキャラクターを真に理解し愛して、または軽蔑して欲しいという個人的な気持ちはあるので
天上道というキャラクターに興味を持ってくださった方には是非最後までお付き合い願いたいなと思います
真実の解説→
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おてらの おしょうさんが
かぼちゃの タネを まきました
『お寺の和尚さん』という子供の手遊び歌が聴こえてきます
近くで子供が遊んでいました
鈴鳴る虚空 掘り起こした
その子供は修行僧の為の鈴を見つけます
一つ鳴らすと、一つ鈴の音が返ってきました
不思議に思い鈴が繋がる土を掘り返してみます
めが でて ふくらんで
後光が差す 伸びた指先
はなが さいたら かれちゃって
蔓蕎麦を落とした
土の中には箱があり、その隙間を覗くと
ガリガリで今にも死にそうなお坊さんが居ました
子供はそのお坊さんが可哀想に思えました
「これをたべて」と
子供は持っていた巾着から『金平糖』を取り出し
そのお坊さんにあげました
この曲に出てくる蔓蕎麦という花は
『ヒメツルソバ』と言います
金平糖によく似た小さくて可愛い花なのです
僧侶は金平糖を蔓蕎麦の花と思い、口にしました
突如に走馬灯 汝拝む有象無象
心の底笑う不浄の情 染まる百合の群像
蛇の章
何年も絶食状態の僧侶に
その砂糖菓子は覚醒剤にも似た衝撃を与えました
あとは死を待つだけだった僧侶の頭の中を
いままでの人生が駆け巡ります
その中には、人々を「有象無象」と呼び嘲笑う自身が居ました
背景の白い百合も赤く染まっていきます
百合という花は、白以外のものに悪い花言葉が付与されます
僧侶は清廉潔白を持ち合わせて生まれた人間では無かった
虚栄心で心を飾らないと自尊心を保てない弱い心の人間だった
だから僧侶になった
その弱さを消す為に、善い人間になる為に仏教の道へ進んだ
弱い人間であったが悪い人間では無かった
本質的なところが金平糖の甘さで呼び起こされました
『人々を救う為に即身仏になる』なんて本心では無かった
死後も人々から称賛を浴び、人々の中で生き続けるのはさぞ気持ち良いものだろう
と
虚栄心が決めた事でした
蔓蕎麦が溶ける胎内
生きたいと願う大罪 冒してはならぬ
金平糖の甘味が胎内に溶けていくたび
死にたくないという思いに支配される
称賛を浴びる為に死ぬなんて嫌だ
でも仏陀は「現世に執着しては悟れない」と言っていた
つまり死ななければならない
「生きたい」と願う事は仏教において罪だ
と
僧侶はいつの間にか仏陀の教えを曲解していきました
嗚呼…
「何が真か?地獄はこわいか?」
心の声が自身に問いかけますが、僧侶は耳を塞ぎ「嗚呼」と叫びます
何が真か?
それがわかっているからです
本質の改善に努めず、飾り立てて弱い人間であったことを『無かったことにしていた』こと
口にしたのが『お釈迦様の手向けた蔓蕎麦の花』
でなく
『憐れんだ子供が落としていった金平糖』
だったこと
僧侶はわかっていました
わかっていたのに食べてしまった
死にたくないから食べてしまった
僧侶を飾り立てる全てのものは仏教でした
それは同時に僧侶の心の支えでもありました
その仏教、仏陀の教えに背くことは僧侶にとって何よりの罪でした
しかし弱い心は、それを認めることができませんでした
修行中にお菓子を食べた
そんな事ですら打ち明ける事が出来ず最期まで金平糖を『蔓蕎麦』と呼びました
「地獄はこわいか?」
自身の罪を誰かに罰して貰える事は
恐怖の先にある救いであります
僧侶の心を本当に救うのは罰でした
僧侶は弱い人間でしたが悪い人間ではありませんでした
本当は誰かに罰を受けて、この罪を浄化したかった
しかし僧侶の心は弱かったのです
聞き難し言葉が穢れなどなき筈の我が身の
心の奥の水仙を揺らした
いつかこの蓮華も朽ちていく
そしてまた六道を廻る
目を開けば天上道に居ました
自分自身の罪を
自分自身に打ち明ける事が出来ず
『無かったこと』になりました
「何が真か?地獄はこわいか?」
という自問自答が、心の奥に隠した自己愛(水仙の花言葉)を揺らしながら
自身を「穢れなどなき筈の我が身」
と呼ぶ虚栄心を隠したまま
永劫に近い時間、この罰の無い世界で生きていかなければなりません
誰にも見つからずに冒せる罪なんて存在しない
だって自分がその罪を見てるから
でも無かったことにはできる
自分がその罪を誰にも言わなきゃ良いんだから
ただあくまで無かったことは無かったこと
その罪は無くなったわけじゃないからね
いまさら誰かに罰を受けたくたってもう遅い
だってもうその罪は『無かったこと』だから
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六道輪廻の中には苦しみがある
悟りを開いて真に清浄な世界、極楽浄土に行けば永遠の安らぎを得る事ができる
しかしながら、天は快楽の世界です
苦しみや憂いなど無く、永遠に近いほど長いあいだ
限りない快楽の中でどうやって真理を体得するのでしょうか
なので仏教において
天に行ってしまうと、そこから悟りの道を切り開くのは非常に困難だと言われる事があります
天上道より上の幸福な世界が『極楽浄土』
しかし悟りを開けないのであれば、次に向かう六道は天より下になるのです
身体の髄まで染み渡った快楽をいつか失い、次生まれる先はどこに堕ちても地獄です
再び天上に生まれ変わっても、結局同じ不安と苦しみの中を永遠と廻らなければなりません
天上道は即身仏になりました
それは未来永劫、現世で祀られ
『この即身仏は悟りを開かれた』
と誤りを語り継がれるという事です
自身の心を騙した結果
現世の人々を騙し続けなければならなくなりました
天上道は、まるで穢れなんか知らない清廉潔白な『天上道』を演じ続けなければなりません
もう今更、罪を償う事はできないのです
だって天上の快楽を手にしてしまったから
臆病な天上道が今更それを手放して人間道以下に堕ちる事なんて出来るわけないのです
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