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シラサギの飛び立つとき-1|小説

この物語にはロシアが登場しますが、私はロシアの文化にのみ憧憬を抱くのであり、戦争によって苦しんでいる人々への救済を願っています。




 冷たい空気が肺を刺した。ここに来たのは三年振りだろうか。前は高校二年生の冬休みに来たのだった。ちょうどスケートをやめたばかりで、せっかくこの国に来るならまだ現役の頃が良かったと思ったのだ。
 暖房の効かない父の車に乗ってぼうっと外を眺めると、そこには一面、白、白、白の雪景色が延々続いていた。ロシアの田舎は——少なくともイルクーツクからさらに北の方の田舎は——住宅かたまに木々があるだけで他は真っ白だ。冬の姿しか見たことがないせいもあるだろうが、ロシアと言えば白の地平線というイメージだった。初めてこの景色を見たときはさすがに興奮したが、今はこの代り映えしない景色は寒さを助長するだけだ。
 外の景色は諦めて、スマホを開く。適当にSNSを見て回ってから、何気なく世界時計を見てみる。イルクーツクと東京の時差はほとんどないから、東京も今頃は夕方だ。半ば意識的にバンクーバーの方に目をやると、イルクーツクとの時差は十六時間、イルクーツクの方が早い。ということは、と計算して今のカナダは夜中だと気づく。訪れたことのないカナダの風景を想像してみる。ぽつぽつと街頭の灯りが点いているのを除いて、レンガの歩道や高層ビルは闇の中に寝静まっている。街角のアパートの一室で、彼は静かな寝息を立てている。練習で酷使された筋肉がベッドの上で安らぐ。いや、もしかしたら、夜更かしして友達と飲んでいるかもしれない。ここまで考えて自分に呆れる。気がつくと周のことを考えている。
 まだ私は周のことが好きなのだろうか。しかし、好きだったとしてもどうしようもない。振られた以上、こちらはどうすることも出来ない。いつまでもうじうじしている自分が情けなかった。暇つぶしは諦めて、何も考えなくて済むように目を閉じた。


「……きなさい。かもめ、起きなさい。もう着くわよ。この寒さ中で寝ていられるなんて、あんたほんとうに図太いわね」
 体が揺り動かされる。気がついたら眠っていた。私の豪胆さにあきれる母のうしろに曾祖母の家が見える。この長旅の目的地だ。
 車を降りると曾祖母が出迎えてくれた。彼女はロシア人だ。まさにスラヴ系の顔という感じで、ほっぺと鼻を真っ赤にしてにこにこ笑っている。ロシア語で「おお、元気にしてたか」と言いながら私の頬を曾祖母の手が包む。硬く温かい手のひらだ。私は「ダ(はい)」とだけ返事をして、笑って見せた。思っていた以上に自分がロシア語を忘れていた。
 ブーツについた雪を払って家に入る。ドアを開けるとすぐに居間だ。暖かい空気が私の凍えた肌をじんわり溶かしていく。色褪せたクリーム色の壁と歩くたびにぎしぎしいうフローリング。前に来た時から変わらない。食卓の上には様々なロシア料理が並んでいる。キッチンにはまだ運びきれていない料理があるようで、イリヤが両手に大皿を持って出てきた。「久しぶり」とあいさつを交わす。
 イリヤもロシア人で、私のはとこにあたる。私の一個上の二十一歳で、曾祖母とこの家で二人暮らしだ。片親育ちで、唯一の父親も海外出張が多いために、曾祖母の元に預けられているらしい。
 二階の寝室に荷物を置きに行くと、暖房の中で厚着をした体はすぐに火照ってくる。ダウンコートとニットを脱いで畳んでから、すぐに居間に下りて夕食の配膳を手伝いに行く。


「数年ぶりの家族の再会を祝して、乾杯!」
 父がグラスを持ち上げると同時に、曾祖母、母、イリヤ、そして私もグラスを掲げた。私はウォッカを舐めながら、そういえばどうしたってまたこんな寒い時期に曾祖母の家を訪れたのだろうと考える。父は数年ぶりにまとまった休みが取れ、私も大学の春休みで暇をしているし、都合が噛み合ったということだろうか。今までだって頻繁に来られていたわけではない。私の記憶にあるうちでは、ここに来たのは今回で三度目だ。そこまで家族旅行の多い一家でもない。これから私が就職することを考えると、曾祖母やイリヤに会えるのは今度が最後かもしれない。
 私たちは酒を飲みながら、もうじき来たるマースレニツァというお祭りの話や、イリヤと私の大学の話、日本とロシアのサッカーやアイスホッケーの戦績、政治の話を順繰りにしていった。初めのうちはロシア語がほとんどわからない母と私を気遣って、皆ゆっくり分かりやすい語彙で会話してくれていたが、酒が回るにつれてどんどん聞き取れなくなっていく。私はそうなるとひたすらペリメニを食べていた。ペリメニは日本の水餃子とほとんど同じ料理だ。もちもちした皮を咀嚼する。外国に来ると、馴染みのある料理を見るだけでそれが好物になったように感じるから不思議だ。
 食卓の上の料理はほとんど平らげられて、同じような話が二周も三周もして、そうしてゆっくり夜は更けていった。私はすぐに酒が回ってしまって、早々に二階の寝室で休んだ。


 朝、目が覚めて窓の外を見ると、雪が太陽の光を反射して眩しい。ベッドから出て朝の支度を済ませながら、さてこれからどうしようかなと思う。この家には一週間も滞在するらしい。ここからでは観光名所はどこも遠いから、籠りきりになる。何冊か漫画を持ってきたとはいえ、この分だと読み切ってしまうだろうし、どうしたものかと考えながら一階に下りるとイリヤがコーヒーを飲んでいた。
「ああ、チャイカ。おはよう」
「おはよう。イリヤは早いね」
「これから学校だからね。チャイカもコーヒーどう?」
「いいの?飲みたいな」
 イリヤがキッチンに向かう。イリヤは私や母に対しては英語を使ってくれるので、翻訳機なしでもなんとか会話ができる。食卓に腰掛けながら、私が初めてイリヤにチャイカと呼ばれたときのことを思い出した。初対面で、お互いにまだ七歳と八歳だったころだ。二人とも今のように英語が喋れなくて、私はロシア語なんてもっと話せなくて、だから今に比べたらずいぶん性能の悪い翻訳アプリを使いながら、自己紹介をしたのだ。

「僕の名前はイリヤです」
「私の名前はかもめです。よろしくお願いします」
「チャイカと言うんですね。こちらこそよろしくお願いします」

 このとき、翻訳アプリは私の「かもめ」という名を名前として認識できず、鳥のカモメとして翻訳した。だから、イリヤは私の名前をロシア語でカモメを意味する「チャイカ」だと勘違いしてしまった。訂正しようとしたけれど、当時の翻訳アプリの性能ではどうにもならず、今ではイリヤにチャイカと呼ばれるのにも慣れた。

「はい、どうぞ。おかわりはキッチンにあるから自由に飲んでね。じゃあ、行ってきます」
「忙しいのにありがとう。行ってらっしゃい」
 イリヤはリュックを抱えて出ていった。ちょうどすれ違うように、母が二階から下りてくる。母の分のコーヒーを私が淹れて、二人で今後の予定を確認し合う。母はおおよそ曾祖母の家事を手伝ってこの一週間を過ごすつもりらしい。父は思いっきり羽を伸ばすために来たようだし、私もそうなるかな、と母に言うと
「えぇ、せっかくだから前来たみたいに滑ってればいいじゃない。そこらじゅうに氷はあるんだし」
「いや、そうはいっても湖の上に張ってる氷なんてガタガタなんだよ。そもそも2年くらいまともに滑ってないし」
 返事をしながら、母という人間はどうしてこうもデリカシーがないんだろうと思う。そもそも前に来た時は、怪我をしてスケートをやめた直後のはずだ。当時ここで自分が滑っていた記憶はまるでなかった。
「でも暇でしょお。せっかくロシアに来てまでぐうたらなんて、普段と変わらないじゃない。前は怪我したばかりだからやめなさいって言っても滑りに行ってたのに。ほんとあんたって子は意地っ張りね」
「はいはい考えとく。コーヒーごちそうさまでした」
 適当に返事をして二階に退散する。たしかに母のいうことも一理あるが、雪景色を見ながら暖かい部屋で漫画を読むのもいいだろう。まずはそれからだ。


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