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砂漠の狼|創作

 少年は泥にまみれた手を見ながら考えた。ぼくの身体はいずれ砂になってしまうだろう。砂が皮をただれさせべろべろに剝がしきったあと、血の流れにも砂が混じっていき、臓器という臓器に砂がいっぱいに溜まり、最後には地平線まで延々と続くこの砂漠と全くの同じになってしまうのだ。砂でいっぱいのここで異質なのは、少年でも、少年と同じようにあばらが浮き出るほどやせ細った男たちでも、彼らをつまらなそうな顔で働かせる監督官でもない。泥と、水とで作られたレンガだ。レンガは一面の黄色い世界を突然ぶつ切るように、積み上がり、壁となっていた。それは大男の三人分くらいの高さで、全体の長さは大陸を横断するほどだった。だから壁よりは長城と呼んだ方が正しいのかもしれない。しかし、それは少年のあずかり知るところではなかった。少年にとっての日々は、泥と水を混ぜ、形成し、乾燥させ、積み上げていくことがすべてであり、誰が何のために壁つくり、労働力のためにどれだけの人間が運ばれてきているかなど、彼には知る由もなかった。

 水を含んで重たくなった泥を長方形にしながら、少年は砂漠ではないどこか遠い場所へ思いをはせた。ぼくの故郷は、とてつもなく寒い場所だった気がするのだ。昼は太陽の照り返しが焦げるように熱く、夜は昼間の熱が嘘みたいに冷え切ってしまう砂漠ではない。もっとふわふわした、白い雲のようなものに囲まれた場所が、自分の生まれた場所だと少年は信じていた。気が付いた時にはもう砂漠にいたし、そんな夢のような場所は想像の中にしかないのかもしれない。それでも、途方もなく寒くて、喉の渇きに苦しむことのない白い場所を思うだけで、あっという間に仕事を終えることができた。少年たちを働かせる監督官の叫び声も聞こえなくなった。渇きも、飢えも、日焼けと砂と労働による体の痛みも、忘れることができた。いつかこの目で、本当に白くて寒い場所があるのか確かめてみたい。きっとそこには壁も土もなくて、水をレンガではなく自分の渇きを癒すためだけに使えるのだろう。砂漠ではただでさえ水が足りないのに、レンガを作ることにばかり水が使われるので、皆いつも喉が渇いていた。喉がからから渇ききって倒れた人間がいくついるか知れなかった。ぼくもいつかあんな風に倒れて、監督官たちにてきとうにどこかへ運ばれて、それでおしまいなのだろう。

 夜、テントの中でぼろきれと呼んだ方がいいような布にくるまって寝ていると、遠くから遠吠えのようなものが聞こえた。あおーん、と五回ほど連続して聞こえて、気になって起き上がった。まわりの男たちは気づかず寝ていた。テントの外まで出てみても、自分と同じように遠吠え聞いたやつはいないらしく、暗闇が続いているだけだった。夢でもみていたのだろうと思い、寝床に戻った。

 今度は聞き間違いではなかった。それに、遠吠えではなく野太い男の声だった。さすがに隣で寝ていた男も起きたらしく、他に寝ているやつはそのままにテントから外を覗いてみると、誰かが目の前で獣に襲われているところだった。ちょうど腹の横のところを鋭い牙が捉え、その拍子にそいつはたいまつを落としてしまったから、その後の全貌を見ることはなかった。ただ獣の荒々しいうめき声と、そいつの叫び声だけが聞こえていた。少年と隣にいた男はすんでのところで叫び声をこらえ、獣に気づかれないようじっとしていた。足が、手が、指先が震え始める。左手の震えを止めるために右手で腕をおさえていても、両腕が震えていたので意味がなかった。いつもとは違う喉の渇きを感じる。声が漏れそうになるのを必死にこらえていた。

 どうやら目の前と同じようなことはあちこちで起きているようだった。目を凝らせば、いつもは真っ暗なはずなのに、たいまつの火がぽつぽつと見えたし、その火のもとで逃げているような影も、または腹を空かせてしょうがないような獣の姿も見えた。時たま叫び声だか遠吠えだかが近いところから聞こえた。このとき、緊迫した状況でかえって冷静になってしまうあの感じで、少年はいままで作らされてきたレンガの壁は、この獣たちから身を守るためだったのではないかと直感した。けれども壁が完成しないうちに来られたのではどうしようもなかった。

 目の前の獣はいまにも食事を終えようとしていた。まだまだ満足する気配はない。次はぼくたちにかぶりつくだろう。そう思った瞬間、少年は自分が気づかぬ間に走り出していた。テントの中に戻り、自分の被っていた布をかっさらって、垂れ幕を押しのけて、砂漠の中を走った。あのまま突っ立っていたら、もし目の前の獣が見逃してくれたとしても、他の獣には食われていたかもしれない。それになにより、今逃げ出せば、あの労働から、あの監督官たちから逃れることができるのだ。獣に食われて死ぬか、飢えて死ぬかの違いしかなかったとしても、少年は逃げ出す方を選んだ。走った。呼吸する音がいやなほど耳に響いて、彼は脚を動かすだけの機械になった。脚が砂に取られてもつれる。なんども転びそうになる。砂は勢いをつけた分だけ沈んでいくので、もしかしたら走らない方が体力も減らさず速く進めるのかもしれない。けれど、そんなことは機械になった少年には関係なかった。体まで砂になってしまわないためには、走るしかなかった。

 東の空が赤くなるかならないかくらいのとき、少年は倒れた。頭はすでに働かず、体への衝撃でどうやら自分が倒れたらしいと知った。少し目を瞑った。それから次に目を開けたときには、太陽が真上まで登っていた。汗が吹き出し、暑いはずなのに、寒くて寒くてしかたがなかった。寒いので布をかぶろうと思ったが、走ってきた途中にどこかへやってしまったらしい。目の前がかすんできた。もうおわりなのかもしれない、と思ったとき、目の前に昨晩見た獣のようなものが一匹現れた。幻覚を見ているのか、ぼくは走って逃げて来たのに、結局獣に食われてしまうのか、と思っていると、次の瞬間には獣の背中に乗せられていた。獣は少年を乗せたままどこかへ歩いていく。ゆらゆらゆられて、なんだかいい気分になる。どうやら食べられる心配はしなくていいらしい。この獣は、暗い中でみていたやつとは同じ種類ではあるが体が小さく、子供なのかもしれないと思った。それに、よく見ると毛がごわごわとして分厚い。レンガを作っていたとき、土を運んでくる役目として荷台を引いてくる動物は、皮が厚く毛がほとんどなかったことを思い出した。少年は揺られながら、また目を瞑った。

 次に目を開けたとき、そこは少年が幾度となく想像した白い世界だった。今まで味わったことのないような寒さが身を刺したが、いつの間にか自分の身体にぼうぼうに生えていた体毛が寒さを和らげてくれていた。周囲には自分たちを襲った獣がたくさんいて、ここまで少年を連れて来た獣もいた。少年は獣たちに恐怖も憎しみも感じていなかった。ただこの場所へ連れてこられたことへの感謝だけがあったのだ。

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