↑↓変化する自分は使いよう
光、闇、んん。裏と表、どちらも表柄の百円玉は百円として使えるか。まったくの光の要素だけの人間はヒトとして保てるのか。
悟りを追っているときに思ったことに人には体調の変化があると言うこと。わたしはもともと元気でもないしテンションもがーっと上がることはマレなのですが意外とポジティブで楽観的です。
元気ではない、だけど子供のときには健康体でどちらかと言うとダウナーではあった。怖い話しとか伝承、医学的な不思議な話しに狂気に興味があって母に心配をよくされた。
闇が強そうでいてその分かは分からないけど大抵は光強いとか言われることもあり、やはりヒトが光のみ等の片方の性質だけを持つと言う見方は無理があるのではないかと思われます。
悟りについてもそうで完全なる悟りに至ると言う考え方に無理があるなと思っています。
悟りを囓っていると本とかに出てくると思いますが、変化することだけが不変の真実、と言うことです。
人間もTさんは明るい性格だからいつも変わらず明るい性格の人、とは思わないわけで。今日はTさんの苦手な雨降りの日で微妙になってるTさん、とかお腹痛くてくすんになってるTさんとか状況とかで変わってくわけです。
悟ってる人も状況によっては変わる。お坊さんがお寺で平静を保とうとする生活を修行し続けるのも、そうなのかもなと秘かに勝手に思っています。
変化し続けることは当たり前、でももし不安になるのだとしたらそれは何故なのかについて分かってしまえば、それは一つの悟りの段階を経たことに当たると感じています。
はじまりも、どこまでも自分を見続けていくとしてもこれに尽きていくんだと断言できます。タロットカードの大アルカナ12番、吊るされた男は瞑想状態だとも言われます。実際のところ現実に動かせない状況に縛られることによって全てを見通せる能力が備わるケースも見られるそうです。
己の心境によっては同じ出来事でも違った受け止め方があるように、現実と言うのはその出来事のそのものを受け手の感情と言う装飾無しに素で見聞きが出来ている人物と言うのはほぼ存在しない。
また、観察をされる対象は観察者の影響を必ず受ける。
素と素の対面なんてことはほとんどあり得ないわけです。
そしてそれは自分自身を己で見る聞く感じるときにも同様だと言われるのにここまでかかりました。
自分のことも己で見たいように見ている。他人のことも架空の己を成り立たせるために都合よく捉えて配置をしているわけです。
よく聞く、自分の内面が世界を作っている、そうした言葉は優しい。わたしも好きです、自分の中で好きなお花とか小鳥を配置してにこっとしていると本当に幸せな世界にいるんだと思う。
こうやって心をなごませながら、一方でわたしは魔術師みたいなことを考えたりする。それでいいんだと思う。