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【#05】 主よ、ごめんなさい。
米粒ほどの石
先週土曜日に「15年ぶりの再発」という記事で、9月1日の尿路結石の出来事を書きました。夜間救急外来の医師に言われたとおり、その日の午前中、泌尿器科でレントゲンを撮ってもらいました。その結果、原因はこの「米粒ほどの石」だと言われました。漢方薬と痛み止め(今度は座薬!)をもらい、とにかく水分をとって、出てくるのを待っています。
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主よ、ごめんなさい。
実は私、先月で半世紀を生きてきた、否、生かされてきたことになりました。そんな節目となる月に、痛みを通して大切なことを教えられました。私はその激痛の中で「主よ〜」と主の名を呼びながら、「主よ、ごめんなさい」という言葉が出てきました。牧師である私は病める方々に対して、「それはあなたの罪のせいです。悔い改めなさい」などと言いませんし、聖書はそんなことを教えていません(ヨハネ9章など)。
それでもこと自分に関しては、良い意味での「主の懲らしめ」として、思い当たる節があるのです。自分の中に石のような固い心があるのです。米粒どころではない大きな石の心です。自分の「意志」を通そうとする「石」とでも言えるでしょう。自分を正しいと思い込み、相手の間違い、人の罪や悪を思い、数え、おかしいと思い、自分の心が固くなっていること、そんな石の心があることを私はよく知っているので、痛みの中で「主よ、ごめんなさい」と祈るのでした。
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聖霊による交わり
そして数時間前の祈祷会の時に思った「聖霊による交わり」(Ⅱコリント13:13)という、言葉を思い起こしました。「主よ、私は自分の思いとか、正しさとか、相手の間違いとか人の悪などではなく、『聖霊による交わり』を大切にさせてください」と、痛みの中で祈ったのです。
あれから1か月半近くが過ぎ、あの時のような痛みはありませんが、まだ石は出てこないのです(石が出てくる時に痛くないようにと願っています)。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のように、痛みが治まると痛みの中で祈ったこと、受け取ったことまでも忘れてしまうところがありますが(旧約聖書の「士師記」のようですね)、毎週の祝祷で祈る「聖霊による交わり」は忘れないでいたいのです。