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【#34】 神の深いあわれみによって(メッセージの断片集11)

クリスマス礼拝(12/18)

 今年は12月25日が日曜日なので、いつものようにアドヴェント第4週(12/18)の礼拝をクリスマス礼拝とした上で、12/25はロウソクに火をともしながらのキャンドルサービス礼拝(燭火礼拝)となりました。何となくクリスマス礼拝が2回あるような感じで、お得な気分です。

 12/18の礼拝は先週の洗礼式の喜びの余韻が続いていて、洗礼式をLIVE配信で参加されていたJさんからのお祝いの言葉が代読されました。思いやりに満ちた誠実な言葉に感心し、感動しました。久しぶりに集われた方々もおられ、嬉しい限りです。またユースのスペシャル賛美や、来られた皆さんに多くのお土産もありました。

 午後からは、隣町のKさん宅へ行きました。同じ町に住むMさんも集われ、心を合わせて賛美と祈りを捧げ、クリスマスをお祝いしました。Mさんが連れて来られた愛犬Mちゃんも、シッポを振って喜んでいました。

 「今年は雪が降らないのかなあ」と、そんなことにはならないと知りながらも密かに願っていました(根雪にならないと寒さが厳しいというジレンマもあります)。しか〜し、そうは問屋が卸しません。12/18の朝は一面雪景色で、朝から雪かきに励みました。真っ白い雪が全てを包んでいくように、神の愛とあわれみが全てを包むクリスマスになることを願っています。(以下はメッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックすると250字のエッセンスを読むことができます。

罪の赦しによる救い

ルカ1:77「神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである」。
 聖書の最大のメッセージは「罪の赦しによる救い」です。残念ながら、赦しの声があまり聞こえてこない社会に生きています。赦すことよりも非難すること、問題を指摘することの方が長けている世の中です。
 
 自分の罪が赦されているという実感が曇っていく時、神の愛から少しずつ離れていくことになります。命の喜びが小さくなります。私の罪は赦されているという事実が小さくなると、自分も人も赦すことはできなくなり、自分を責め、人を裁くことになります。罪は責めを伴うからです。

 罪を赦す救い主を迎える、それがクリスマスです。罪の赦しとは執行猶予ではありません。ちゃんとしていたら、天国に行けますということではありません。罪の赦しとは、その罪についてはあなたの責任を問わない、責めないということです。主イエスが全ての罪を背負われ、全ての責めを負われたので、自分を責めることも他の誰かを責めることもない、あわれみの道を歩むことができるのです。罪の赦しとは、関係の回復をも含んでいるのです。

あわれみに生かされる

ルカ1:78a「これはわれらの神の深いあわれみによる」
 「あわれみ」というギリシア語:スプランクニゾマイは、内蔵を指す言葉だそうです。日本語では「腸(はらわた)がちぎれるような思い」「断腸の思い」と言えるでしょう。居ても立ってもいられないということです。

 主なる神の腹の底からの思いとして、「〜せずにはおれない」のです。罪のゆえに私たちが苦しむのを、一緒に苦しまずにはおれないのです。私たちが悲しんでいるのを知れば、一緒に悲しまずにはおれないのです。傍観する、スルーする、見て見ぬ振りをすることなんて、とてもできないのです。私たちを救うために、御子イエスを遣わさずにはおれない、そういう神の深いあわれみが今日も私たちに注がれているのです。

今日も主の恵みと慈しみが追いかけてくる1日でありますように。


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