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【#79】自分を救うのではなく(メッセージの断片集25)

4月2日の様子

 この日は、棕櫚(しゅろ)の主日です(英語ではPalm Sunday)。棕櫚というのはヤシ科の木のことで、イースター(復活祭)の一週間前、主イエスがろばの子に乗ってエルサレムに入場する際、人々がナツメヤシの枝を手にして「ダビデの子にホサナ」と迎えたことを由来しています。

▲ catholic onlineのPalm Sunday HDより

 この棕櫚の日から受難週(聖週間)が始まり、主イエスが十字架に掛かられるという受難を特別に思い起こしながら一週間を過ごすことになります。ある教会では洗足の日の木曜日に洗足式を行っています。私たちも何度か洗足式をしましたが、今週は祈祷会で聖餐式を行います。

 主イエスの十字架を仰いだ礼拝後、進級祝福式を持ちました。新しい学年に進む子どもたちを祝福し、プレゼントをお渡ししました。記念写真も撮ってもらいましたが、私、背伸びをしても隣の高校生に足りていませんでした。

 午後からはリーダー会、そして夕方から三浦綾子読書会に集っているOさんにインタビューをする時を持ちました。Oさんが三浦綾子の本をどうして読むのか、読んで何を思うのかなどなど聞く中で、Oさんは男泣きしておりました。この内容を私が1500字程度にまとめて、今週土曜日に発表する予定です。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックすると250字でメッセージのエッセンスを読むことができます。

人に仕える王として

 人の最期は皆に感謝されながら迎えたいと思うものです。しかし王としての主イエスは、多くの人々にあざけられながら、衣も剥ぎ取られながら、極悪非道人に挟まれながら死んでいくのです。王である主イエスの死に場所は、十字架という呪いの場所、辱めの場所でした。それは「あなたがどんな状態になっても、わたしはあなたを見捨てない」ということ、自分が惨めな思いをするところ、そこにこそ王である主イエスが共におられるということです。

 この世の王は、権力や能力、財力で自分を認めさせ、仕えさせ、支配します。私たちも、自慢や立派に見えること、持ち物や贈り物で、自分を肯定してもらおうとします。しかし王である主は、人の罪を被り、私たちを愛することで、私たちを肯定されるお方なのです。

人を救う救い主として

 主イエスは十字架を背負うのが好きだから、十字架を背負わったわけではありません。主イエスは、全人類の罪、私の罪である十字架を背負わずにはおれなかったのです。真実の愛のある人は、愛する人の悪を、罪を、痛みを担わないではおれないのです。主イエスはあなたを愛するゆえに、あなたを救うために十字架に掛かられたのです。主イエスは自分を救う救い主ではなく、人を救う、私たちを救う救い主なのです。

 十字架刑はあまりにも残酷で苦しいので、麻酔作用のある没薬を混ぜたぶどう酒を飲ませるのですが、主イエスはお飲みになりませんでした。それは「苦き杯」を最後の最後まで飲み干されることを選ばれたからです。主イエスは上辺で「あなたの痛みはよく分かる」と同情しているのではありません。時に麻酔されたかのように自分の罪を誤魔化し、自分と向き合わず、無かったかにようにしてしまう、そんな私たちです。それでも主イエスは私たちの罪の苦しみを味わわれ、私たちの痛みも悲しみも、全部背負われた救い主なのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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