見出し画像

【#283】本当の祝福(メッセージの断片集92)

8月4日(日)の様子

 少し前から高校生のEさんが、礼拝が始まるかなり前に自転車でやって来て、教会外の玄関周りを掃き掃除してくれています。自ら申し出てくださいました。嬉しいですね。見えないところで見えないお方に仕えるということは、とても尊いことです。

 礼拝では昨年に続いて、旧約聖書のヤコブの出来事を分かち合っています。正直に言って私はヤコブが好きではありません。多分、好きではないと思うところに、見つめなければならない自分自身の内にある好まざる何かがあるようです。そして私が好まないヤコブを「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」(ローマ9:13)と言われる神がおられます。なぜ神はヤコブを愛されるのでしょうか。そして同時に、なぜ神はエサウを憎まれるのでしょうか。憎むとはどういうことでしょうか。憎んだままなのでしょうか。聖書を読んでいて「?」と思うところ、そこには時に神の大きな御心が示されているようです。

 夕立ちが降りしきる中で開かれた午後からの拡大SL会(The Servant of the Lord)では、1ヶ月の教会の歩みを感謝し、これからの予定を確認し、主の御心がなるように共に祈ることができました。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックするとメッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

神と向き合う

 ヤコブは兄エサウの心を鎮めようとするために、考える限りのことをしました。それでもヤコブの心の中には、恐れと不安がいっぱいなのです。本当に鎮めなければならなかったものはエサウの心ではなく、ヤコブ自身の心なのです。そしてヤコブは御使いと組み打ちをしました。つまりそれは神ご自身と向き合っているということです。ペヌエルとは、神の御顔のこと。顔と顔とを合わせる程に、神と向き合ったのです。

 私たちは神の御顔を慕い求めることを大切にしたいのです。時には神の御手の業をのみ求めることがあります。それは主なる神を求めているというより、神がくださるものを求めていることになります。自分が心配していること、気になっていること、不安になっているところばかり見つめて、そこに御手の業が現れることを求めて、主なる神と向き合っているでしょうか。いろいろと考えていることをいったん横に置き、神とじっくり交わる時、そこで初めて見えてくるもの、分かってくるものがあります。

神の祝福を確信する

 先ほどまであんなにエサウを恐れていたヤコブでした。しかし主なる神としっかり向き合った時、もはや「エサウから命を救ってください」という求めをしていません。「私を祝福してください」と、神が祝福するという確信をヤコブは求めるのです。自分の願うことから、主なる神の願う祝福へと私を導いてくださいという祈りです。

 ここでヤコブが求めた祝福とは何でしょうか。ここでヤコブが願ったことは、和解すること、関係が回復すること、赦しを得ること、へりくだって頭を下げる力を得ることでした。神と共にある強さをもった歩みをさせて頂ける、それこそ本当の祝福と言えるでしょう。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?