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【#155】歩み寄る(メッセージの断片集50)

10月8日(日)の様子

 土曜日の午後8時から11時過ぎまで教会関係ではない委員会があり、また10/8の礼拝後から北海道聖会のために札幌へ出かけるということもあり、前日からあれやこれやと慌ただしく過ごしていました。しかし日曜日の朝は、そんな慌ただしさをそっと癒すかのような、清々しい秋晴れの日となりました。

 礼拝に備えて講壇横の椅子に座っていると、玄関に見慣れない若い女性の姿が見えました。「新来者が来られたかなあ」と思って見ていると、中学3年生のSちゃんじゃありませんか!見慣れないどころか、ハイハイしている時からよく知っているSちゃんは、すっかりお姉さんになっています。嬉しいですね。でも反面、私は老眼が進み、白髪が増えているわけです😅 (以下は礼拝メッセージの断片集です)

歩み寄る

 ヤコブとラバンのやり取りを見ていると、相変わらずヤコブはヤコブで、ラバンはラバンだなあをと思わずにはおれません。それでもこの2人に神の眼差しが注がれていることを通して、私たちは自分の家族や親戚、また社会における人間関係で、大切なことを教えられるものです。

 ここでラバンもヤコブもお互いに歩み寄ることができたように、主を証人とし、主が見つめておられることを知る時、私たちも歩み寄ることができるのです。歩み寄るということの1つは、相手に100%の正しさを求めないとも言えるでしょう。どっちが正しい、間違っている、そこを言い争うことに神経や力を使い過ぎてしまっても、そこから何の良いものも生まれてこないでしょう。むしろ歩み寄る、和解する、手をつなぐことこそ力を注ぎたいのです。

 完全な人は一人もいません。私たちだってそうではありませんか。主がそんな私たちを見つめておられ、私たちの全てを知っておられるのです。だからこそ、全てをご存知の主なる神にゆだねながら、私たちは歩み寄る一歩を踏み出すことができるのです。

礼拝を捧げる

 ラバンと契約を結んだヤコブは、山でいけにえを捧げました。それはつまり、礼拝を捧げたということです。アブラハムは事あるごとに祭壇を気づいて礼拝を捧げましたが、ヤコブの家族には礼拝の様子がありませんでした。真実な神を仰ぐことが無かったがために、ヤコブは自分の欲しいものは奪い取り、押しのけ、嫌なものからは逃げ去るという古い性質を抱えたまま生きていました。

 しかしヤコブは自分を守り、自分を見つめておられる主を知り、心からの礼拝を捧げました。その結果、和解や祝福し合う道を主が備えてくださったのです。私を見つめておられる主の真実な眼差しをしる時、私たちは自分を見つめてくださる主を私たちも見つめる者、礼拝者となります。その結果、和解や祝福し合う豊かさが与えられていくのです。日曜日の礼拝だけが礼拝ではなく、置かれた場所で主を仰ぐ、主の名を呼ぶことも、礼拝です。そこから和解と祝福の道が始まっていきます。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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