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【#286】祝福の道(メッセージの断片集93)

8月11日(日)に様子

 「主の手に我が手を重ね、主の足に我が足重ね」という賛美を皆さんと共に歌う中で、その歌詞が迫ってくる礼拝でした。前の週、体調を崩されていた方々も回復して集われ、礼拝後のお弁当愛餐会もご一緒できて感謝です。

 礼拝後、Tさんが車を購入されたので、主の守りと祝福を祈る時を持ちました。未使用車ということ、またいろいろと可愛くて、お洒落で、今どきの仕様があって、楽しめる車ですね。さすがTさんです。

 午後からはKITAMIユースタイムがあり、T&Aさん夫妻を中心にファンキーで楽しくて、また恵みを味わうひと時だったようです。後でベロを出している画像が送られてきましたが、合成着色料いっぱいの何かを食べたようで、とても怪しい色をしていました(笑)

 夜は、昨日から始まっている教区サマーキャンプの準備、またその期間にできないことをいろいろとやっておりました。月曜朝にこの記事の下書きを書いていますが、久しぶりに会う方々と共に再会を喜び合い、きっと大きな喜びのあるサマーキャンプになっていることと思います。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ 画像をクリックするとメッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

和解する

 ヤコブがペヌエルでの経験を通して得た祝福の1つは、兄エサウと和解する心備えができたことです。ヤコブとエサウは涙を流して和解することができました。ヤコブが涙を流しているのは33章だけではなく、32章のペヌエルでも涙を流していることが、ホセア書にしっかりと記されています(ホセア12:4-5)。主なる神の前で流した苦しみと悲しみの涙は、喜びの涙に変えられるのです。不思議なことに、ヤコブの心を変えてくださった主は、エサウの心も変えてくださっていたのです。

 報復し合うことではなく、和解することができる、これこそ祝福の道なのです。人間関係は交換ではありません。ましてや復讐ではなく、修復なのです。それがてきる祝福の道を主イエスが開かれました。 

祝福する

 ヤコブは兄エサウに贈り物を持ってきました。これを「祝いの品」と呼んでいます。つまりエサウを祝福する思いの現れなのです。当初は貢物でエサウの気を引こうとしていたかもしれません。しかしここでは、自分の持てるものでエサウを祝福したいという思いで満たされているのです。

 かつてヤコブは、かかとを掴んで生まれ、人を押しのけ、奪い取る歩みでした。しかし彼はペヌエルを通って、喜んで与える人になっています。エサウからの報復を恐れていたヤコブでしたが、祝福する者に変えられているのです。人を祝福することができる、これこそ祝福の道を歩んでいるということです。

 そして「私はたくさん持っていますから」と言っているのは、「私は全てを持っています」ということです。あなたを祝福するためのものは、祝福の神が全てを与えてくださるから、私はあなたを祝福することができるとも言えます。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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