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【#303】キリストの心を持つ(メッセージの断片集98)

10月6日(日)の様子

 清々しい朝でした。この日はC君の洗礼式。嬉しいですね。言葉になりません。前の週に面談をし、証しを確認し、心構えをお伝えし、共に祈りました。「どんなことを言われるかとドキドキしていました」と緊張していたようです。私は緊張というよりも、厳粛な事実に背筋が伸びました。C君が洗礼を受けるというよりも、神がC君に洗礼を授けてくださるという、神の業だからです。

 礼拝後はお祝い会の時を持ちました。私が前の晩に作ったC君の小さい時からのスライドを皆さんで見ながら、笑ったり、歓声が上がったり。一人ずつ、お祝いの言葉をお願いしました。それぞれの思いがこもっていて、号泣している方々もおられました。

 お父さんからのお祝いの言葉が終わった後、お父さんとお母さんを呼び、感謝の言葉を伝え、家族でハグをしていました。どうやら前の週の面談で、「洗礼を受ける前に、両親にここまで育ててくれたことについて、きちんと挨拶をしおいてよ」とK君にお勧めをしていたのを忘れていたようです。結果として、神の家族ってなんて麗しいのでしょうと、祝福の拍手をせずにはおれませんでした。

 K君はこれからも、もしかしたら「あ!!!」と、突然のように勧められていたことを思い出すことがあるでしょう。それは誰にでもあることです。しかしK君の場合、そのことが結果として周りの人たちを笑顔にしていくことでしょう。なぜならK君の歩みには、救い主がご一緒だからです。

 「K、リラックス、リラックス」と、小さい頃よくお父さんに言われていたことを思い出しました。救い主が共におられるので、K君を通して多くの人たちがリラックスさせられていくでしょう。(以下は礼拝メッセージのエッセンスです)

▲ 画像をクリックするとメッセージのエッセンスを250字で読むことができます。

へりくだる

 へりくだるとは、「互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい」につながっていきます。この根底にあるのは、比較というよりも目の前の人を尊んでいくということです。その存在を軽く考えることなく、神がこよなく愛している、かけがえのない存在として尊ぶということです。

 人を責め、悪く言う元気があるうちに、その人と和解できたら素晴らしいですね。人間関係が許されるのはほんの束の間です。自分も相手もあっという間の人生で、終わりの時はいつやってくるか分からないし、確かに近づいています。「あなたのここが嫌なの」「あなたのそんなところどうにかならないか」ということ以上に、「あなたと出会えて本当に嬉しい」「あなたがそばにいてくれて私は嬉しい」と、相手の存在を尊ぶ言葉や態度を私たちが示すこと、それがへりくだることでしょう。


他の人のことも顧みる

 自分のことだけに捕われ過ぎないように、私たちの心を神様に向けていくなら、自然と神様が愛している隣人にも向かっていきます。今朝、一人ひとりに主イエスがお願いしている人がいると思います。

「あの人のことをもっと心にかけてくれないだろうか。分かる、あなたは自分のことで精いっぱいだということも知っている。でも、それでもあの人のために時を定め、心を砕いて祈ってくれないだろうか。あなたの出来ることをしてくれないだろうか。私の心を心としてくれないだろうか」

そう主イエス様が示す人がいるはずです。今週、その人を自分のことのように顧みて生きていく、そんな力を聖霊にいただこうでありませんか。自分のためだけの時とは違う、私たちの心が本当の意味で満たされていきます。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。

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