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【#58】2年ぶりに咲いたシクラメン(メッセージの断片集18)

2月12日の様子

 礼拝をライブ配信するようになって、日曜朝のやるべきことに配信準備が加わっています。もともとこういうことは得手ではありません。複数人の詳しい奉仕者がいれば別ですが、基本的には「誰でも、簡単にできる」ことをモットーにしています。より良い音声、見やすい画像をも目指して試行錯誤をくり返してきましたが、あくまでも配信は手段であることを忘れてはいません。手段の目的化は、陥りやすい罠であると思っています。(もちろんPA、配信など、この方面で地道な努力と試行錯誤をされてきた皆さんに対する敬意を持っています。ありがたいことです)

 この日の朝は、コンデンサーマイクのハム音(電子的なノイズ)が気になっていました。USBとマイクの接地が問題では無いかなあと推測していて、何度か抜き差しをくり返し(何と原始的な対応!)、この日は何とかハム音が収まってくれました。他のマイクでは鳴らないので、メーカーに問い合わせのメールを送りました。解決策が見つかると良いのですが。

 この日の夕方は、久しぶりにYさんと聖書の学びの時を持ちました。ロマ書10-11章を一緒に読み、聖書の示す真理を恵みとして分かち合いました。Yさんは「今日は予習が不十分で・・・」と言われていましたが、Yさんとの聖書の学びで私の方が多くのことを教えられ、あっという間の約2時間のひと時となっています。

▲ 2年ぶりに咲いたシクラメン(2023年2月12日)

 前後しますが礼拝が終わった後、Tさんが講壇横のシクラメンをしげしげと眺めておられました。実はこのシクラメン、一昨年(正確には2020年12月、前の前の冬シーズンという意味)のもので、昨年(昨シーズン)は咲かなかったのです。ところが今シーズンになって咲く気配を見せ、妻が肥料やるなどして美しく咲いたのです。花の数はやや少ないのですが、花びらの色合いが何とも美しいのです。主イエスの言葉を思い出します。

すると園丁は答えて言った、『ご主人様、ことしも、そのままにして置いてください。そのまわりを掘って肥料をやって見ますから。

ルカによる福音書13章8節(口語訳)

 「相変わらずだなあ」と思う自分と向き合うのがしんどい時もあります。人のせいにしたり、自分の正しさを主張することにも疲れてしまいます。なかなか咲けないなあ、実らないなあと諦めそうになりますが、あの園丁のように主イエスはとりなし、肥料をやり、忍耐と寛容を持って待っていてくださるのだなあと、シクラメンを見ながら思うのでした。(以下は礼拝メッセージの断片集です)

▲ クリックをすると250字のエッセンスを読むことができます。

愛と礼拝に生きる信仰

 百人隊長がカペナウムにいるユダヤ人のために会堂を建てたのは、ユダヤ人の信じている神は真の神だと胸に堪えるものがあったからでしょう。そして百人隊長自身も真の神を信じ、礼拝を捧げたいという思いがあったということです。さらに一緒に礼拝を捧げ、同じ神を見上げる中で、神の愛が彼らを包んでいったのです。

 また百人隊長のためにわざわざ、熱心に主イエスにお願いするユダヤ人の長老たちに、百人隊長を異邦人として退け、差別する思いはありませんでした。もちろん百人隊長も支配者としてユダヤ人に圧政を敷くこともありませんでした。真実な愛の神を礼拝する時、人との関係にも愛が与えられていきます。

主の言葉を信頼する信仰

 百人隊長は、主の言葉に権威があること、本物の力があることを信じていましたた。主イエスの語られるところに、真の神が生きておられる、始まっていることを知り、心から主イエスを信じ、主の言葉に信頼したのです。

 百人隊長は、瀕死の状態の奴隷を信頼し、大切にし、「我が子」と呼んでいます。主なる神を信頼する時、主が私たちを信頼していることの大きさに心が震えずにはおれなくなります。信頼されるに値しない私が主に信頼されているからこそ、私たちは周囲にいる方々を信頼する思いが湧き上がってくるのです。

 人間関係で信頼し合えない時、これは大きな不幸です。夫婦関係、親子関係、友人同士、職場での関係の根底に信頼する思いがあれば、ほとんどの問題は解決されていくはずです。しかし悲しいかな、人は信頼し合うことができない罪性を抱えています。外側の制度を整えて状況を変えようとしても、内側に信頼関係がなければ、結局のところ何も変わらず、むしろ混乱は増すばかりでしょう。

 まず、本気で主の言葉を信頼して信じていきましょう。状況が問題なのではなく、主を信頼して主の言葉を信じて歩んでいるのか、そこが大切なのです。

今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。


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