【#237】迷宮入り
ためらいつつ
大切にしている地域の牧師会。福音派の牧師だけではなく、プロテスタント諸派、そして聖公会の司祭やカトリックの神父まで当然のこととして出席され、「牧師会」という名前を超越しています。毎回、いろんな発見があり、多くのことを教えられ、また共に祈り合えることが嬉しいですね。私に出張やzoom委員会が入ると、妻が代わりに出席しています。ここ数年は妻の方が皆さんと馴染みになっているのかもしれません。そんな牧師会で親しくさせていただいているY先生(女性の牧師)からメールをいただきました。
最初に答えを言いますと、私ではありません、残念ながら。Y先生のためらい感も感じつつ、どうお返事をしたら良いだろうかとしばし考え、率直に思ったことを下記のようにお返事しました。
Y先生のためらうお気持ちもよく分かりますので、お気持ちに寄り添えることができただろうかなあと思っていましたら、さらに返信がありました。
背筋がゾクッと
Y先生の教会を想像しながら、蕗の薹が芽吹いているように感じ、まさに新共同訳聖書のイザヤ43:19を思い起こしての「新しいことが芽生えているのでしょう」でした。
すぐそばにあるもの
どなたがY先生の教会へお届けものをされたのかは「迷宮入り」のようですが、今回のことを通して、大きなことではありませんが、何か大切なものを感じるようなやり取りでした。
幼い頃に「やぎさんゆうびん」を歌いながら、「しろやぎは最初にどんなことを手紙に書いたのだろう?」と思い、それこそ迷宮入りしていました。しかし最初に何を書いたかということが、あの歌の主旨ではありません。説明はしませんが、合理的な解答以上のものがあの歌詞にあります。日常生活にある様々な迷宮入り、答えが分からないことがらというもののすぐそばに、次元の異なるあたたかさがあるのかもしれません。
さあ、明日は主日礼拝です。私たちが「?」を感じていることがらの、すぐそばにある大切なもの、あたたかいものを受け取ることができますように。
今日も主の恵みと慈しみが、追いかけてくる1日でありますように。