首都は「ほしのや」武田信玄の相模新都市構想?
武田信玄には、相模の国の「ほしのや」に新たな「鎌倉」を作る構想があった。
という記述が甲陽軍鑑にあるそうです。
信玄公はたびたび関東に軍事侵攻し、北条氏の居城であった小田原城を包囲したこともあります。
当時は関東公方という足利将軍の親戚が関東地方の最高権威として存在していました。
関東公方はすなわち関東の幕府であり、その本来の首都は鎌倉です(当時の関東公方は古河にいましたが)。
信玄公が言うところの「鎌倉」は「首都」みたいな意味なのですが、
「ほしのや」を首都として関東を支配する。
で、その相模の国のどこかにあった「ほしのや」はどこだと思います?
なんとなく空想的な地名ではありませんか。
現在の小田急線座間駅から徒歩10分のところに「星谷(しょうこく)寺」という寺があります。
かつての星谷寺は現在の地点より北東の谷戸山公園にあり、この付近一帯はかつて「ほしのや」と呼ばれていたようです。
この公園内をかつては府中街道が通っていたそうで、馬頭観音や庚申塚が残っています。
※意外と知られていない 昔々の谷戸山の面影
http://zamayatoyama.kanagawa-park.or.jp/yatoyama_pdf/yatoyama_0404.pdf
小田原攻めのときに武田軍の一部がこの付近を通過しているのですが、信玄公がここに立ち寄った可能性はあるのでしょうか。
東西の陸上ルートと相模川が交差する地点です。
この付近は地盤が安定していて水害の心配もないうえ、湧き水が豊富で、近くには縄文遺跡もあれば古墳もあり、古くから人が住むのに適した土地であったと想像します。
私の好きな鈴鹿神社もすぐ近くです。
それにしても、なぜ旧都鎌倉ではなく座間なのか?
そこで地図をじ~っと見てみますと、なるほど~と思うのです。
現代人はどうしても「東京」を中心として関東を見てしまいますが、徳川家康が開発に着手する前の東京23区付近は湿地帯が多く、人が住む世界としての存在感は薄かったようです。
中世の合戦は群馬県から鎌倉に至るルート上で頻発していて、座間もなんとなくそのルートに近いです。
武田帝国が目指す関東の支配地域は、北条氏の拠点である小田原、旧都鎌倉、武蔵国の首都である府中を中心とする武蔵西部、上野の国の西部であったと私は想像します。
このあたりを軍事的に支配するとしたら、座間あたりは都合がよいかもしれません。
相模川をさかのぼると甲斐の国。相模川は水運で太平洋と甲斐をつなぐうえでも意味があります。
その相模川と東西の陸上ルートが交差する地点が厚木・海老名付近です。
このあたりを北東から見下ろす丘陵が「ほしのや」でした。
信玄公は海に出たかったのでしょう。
だから、相模川の中継地点を重要視したのではないか。
とは言え、座間を中心とする武田帝国の野望があったとしても、それはいくつもの構想の一つに過ぎません。
なにしろ、越後を目指したり、京を目指したりと、方向の定まらなかった信玄公ですから。
ちなみにこの場所に後年、陸軍士官学校ができ、現在はその一部として米軍座間キャンプが残っています。
奈良時代には蝦夷征伐に出征する軍団の拠点だったという説もあり、すぐそばの海老名には国分寺がありました。
このあたりはいつの時代も軍事と縁が深いなあと思ってしまいます。