日本誕生の謎を解く⑥百済・新羅の熾烈なスパイゲーム
倭系百済官僚日羅
6世紀末、日羅という人物が登場します。
その父は肥後国の葦北(現在の葦北郡と八代市)の国造で刑部靭部阿利斯登(おさかべゆげいべのありしと)と言います。
刑部(おさかべ)と靭部(ゆげいべ)はそれぞれ氏族としての役割を意味していますが、軍事的な性格が強い氏族だと想像されます。
「アリシト」は地方の首長を意味する用語で、個人名ではないものと思われます。
537年、新羅が任那に侵攻したとき、倭国がこれに対抗して大伴金村の指揮下で派遣軍を編成しましたが、この任那派遣軍に葦北のアリシトは従軍したようです。
こういう場合、倭軍は百済軍との共同作戦を取り、長期にわたって現地に駐屯します。
このとき、葦北のアリシトは派遣先で百済の有力者の娘との間に一子を設け、その子が百済の高官となって、日本書紀では日羅という名前で記録されました。
この名前、本当か?という気がしますが、それはあとで触れるとして、このように倭人の血を引きながら百済王に仕える役人になった者を学術的には「倭系百済官僚」とも言うそうです。
倭国王による日羅召喚要請
583年、敏達天皇は新羅に占領されている任那を奪還することを考え、百済政府の中でも知恵と勇気があると言われる日羅を呼び出して、外交政策について質問しようと考えました。
しかし、百済王はなかなかそれに応じません。
そこで倭王は吉備海部直羽島(きびのあまべのあたいはしま)という者を百済に派遣しました。
羽島はひそかに日羅の家の門まで行くと、中から日羅の妻が表れて韓語(おそらくは百済語)で「あなたの根を私の根のうちに入れよ」と言って家の中に戻ったので、羽島はそのあとをついてゆくと、そこに日羅が表れ、手を取って座席へ案内しました。
日羅は
「百済王は私が倭王の元へ行ったら二度と返ってこないのではないかと疑っているから私を倭国へ行かせたくないのです。倭王の命令を強い口調で伝えないと私を出国させてくれませんよ。」
と羽島に助言しました。
その後、百済王は羽島からの要求に従い、日羅のほか、恩卒、徳爾、余怒、奇奴知、参官、舵取徳卒次干徳、水夫らの随員をつけて日羅の出国を認めました。
これら随員の呼び名は個人名ではなく役職であろうと思われます。
倭国内で暗殺さる
来日した日羅一行は河内国渋川郡跡部郷あたりに滞在し、その後、倭国政庁に呼ばれ、半島政策に関して倭国首脳らから意見を求められました。
このときの倭国側首脳は、阿部目大臣、物部贄子連(守屋弟)、大伴糠手子連(大伴金村の子)でした。
そのときに日羅がこんな発言をしたと日本書紀は記録します。
「天皇が天下を治める政治は必ず人民を養うことであり、にわかに兵を興して民力を失い滅ぼすようなことをすべきではありません。
今、国政を議る人は、上から下まで皆富みさかえ、足らないところのないように努め、このようにすること三年。
食料兵力を充たし、人民が喜んで使われ、水火も辞せず、上下一つになって、国の禍を憂えるようにします。
そのあとで多くの船舶をつくり、港ごとにつらねおき、隣国の使者に見せて恐れの心をおこさせ、有能な人材を百済に遣わして、その国王をお召しになるとよいでしょう。
もし来なかったら、その大佐平(高官)か王子らを来させましょう。そうすればおのずと天皇の命に服する気持ちが生ずるでしょう。そのあとで任那の復興に協力的でない百済の罪を問われるのがよいでしょう。」
「百済人は謀略をもって<船三百隻の人間が筑紫に居住したいと願っています>というでしょう。
もし本当にそうしたら、許す真似をするとよいでしょう。
百済がそこで国を造ろうと思うなら、きっとまず女、子供を船に乗せてくるでしょう。
これに対して、壱岐対馬に多くの伏兵をおき、やってくるのを待って殺すべきです。逆に欺かれないように用心して、すべての要害には城砦を築きましょう。」
日羅の発言は当然ながら百済政府にとって許されない裏切りでした。
そして、百済政府の随員であった徳爾と余奴という者らが難波に滞在中の日羅を付け狙い、日羅を暗殺し」ました。
その遺体は物部贄子と大伴糠手子により小郡の西畔丘にとりあえず埋葬されました。
倭国内で繰り広げられるスパイゲーム
日羅は倭王に属する有力豪族の子であり、百済政府の官僚とは言え、倭国と百済との仲介役的な存在だったと思われます。
彼は百済政府の外交機密に関わっていたのですが、百済を裏切って倭国に外交機密を漏らしたから暗殺されたという話になっています。
百済王は裏切りを心配して「余計なことを言うなよ」と脅していたのでしょうか。
そのことを日羅の妻も知っていて、「あなたの根を私の根のうちに入れよ」と言ったのでしょうか。
これはつまり、日羅は「ひそかに倭国に亡命したい」と願っていたという意味なのか。それを察して百済王は百済の随員たちに日羅を監視させていたのか。
日羅は倭国滞在中、甲冑を身に着け、馬にのって滞在先から倭国の政庁に向かい、甲冑を脱いでから発言しました。すでに暗殺を恐れていたのです。
倭国高官との会話の最中だけ甲冑を脱いでいたのは、百済の随員はその場にいない状態で、日羅は倭国政府の高官と密談をしたということかもしれません。
しかし、日羅の発言は百済の随員たちの耳に入りました。そして、その発言から裏切りが明確になったので、彼らは暗殺したのです。
百済の軍事機密が日羅を通じて倭国首脳に漏洩し、その外交機密情報が倭国首脳部から百済の随員に漏洩した結果、日羅が倭国内で暗殺された。かなり異常な事件です。
百済による九州侵略計画
日羅は倭国首脳への発言のなかでこう言っています。
「百済人は謀略をもって<船三百隻の人間が筑紫に居住したい>と願いでます。そうしたら倭王はそれを許すふりをしてください。
百済が九州に国を作ろうとすれば、船に女や子供を乗せてくるでしょう。これに対して壱岐、対馬に多くの伏兵を置き、彼らがやってくるのを待って殺すのです。
この策に気がつかれないように用心して、すべての要害に城砦を築いてください。」
なんと、百済政府が百済人を九州に移住させて乗っ取ろうと考えていたというのです。
船一隻に50人のれるとすれば15000人。そして倭王は倭軍に命じてこの集団を壱岐と対馬で襲撃し、皆殺しにするという作戦なのです。
日羅は息を引き取る間際に「これは新羅の仕業ではない」と言ったと日本書紀に記録されます。
日羅は妻子を同行していましたが、倭国政府は変事を防止するため、日羅の妻子たちを石川の百済村に、同行していた水夫たちを石川の大伴村に隔離して住まわせました。
水夫たちが日羅の妻子を襲撃する可能性があったのです。
暗殺犯の末路
暗殺犯は倭国政府に逮捕され、百済政府の命令で暗殺したことを自供しました。
暗殺犯らは身柄拘束後、葦北から呼ばれた日羅の一族に身柄を引き渡され、彼らによって殺害されたあと弥売島というところに捨てられました。弥売島がどこであるかはわかりません。
日羅はその後、日羅の一族の手で九州の葦北で埋葬されました。日羅はもともとから葦北の一族と密接な結びつきがあったと思われます。
なお、暗殺犯に指示をした百済政府の役人は二人いて、二人とも逃走に成功し、そのうちの一人が乗った船は対馬海峡で強風のため沈没したとのことです。
この事件には謎がある
しかし、どうもこの事件は腑に落ちないことがたくさんあります。
百済王が日羅の裏切りを恐れていたのなら、日羅を百済国内で暗殺すればよいのです。
そもそも、百済が九州に侵攻するなどといったことがありえたでしょうか。
百済は新羅と敵対関係にあるのに、新羅の存在を無視して同盟国である倭国に戦争をしかけたら、喜ぶのは間違いなく新羅です。
というのもこの話の発端は、敏達天皇が新羅に軍事侵攻しようと考え、日羅ならそのためによいアドバイスをくれるであろう。
つまり日羅は新羅侵攻に前向きな人物であると倭王は考えていたわけです。
ならば百済王は何を恐れ、日羅はなぜ、百済にとって不利なことを倭国で発言したのか。
日羅という名前
日羅という名前も不思議です。姓が「日」で名が「羅」。それはないでしょう。
これは日本書紀編纂者が作った名だと思います。日本の「日」と新羅の「羅」をくっつけただけ。
もちろん、敏達天皇の時代に「日本」は存在しません。
では、日羅という名にはどんな意味があるのか。素直に考えれば、日本と新羅に関係しているという人という意味でしょう。
日本書紀は日羅が新羅のスパイであったと言いたいのでしょうか。だとすれば、日羅が百済を裏切るのも当然ということになります。しかし、なにか引っかかります。
新羅政府の立場から考えると
日羅は新羅侵攻計画に前向きで、知恵と勇気もあって、倭王からも信頼されていたのですから、日羅が倭国に行けばどうなるか。
倭と百済の連合軍が新羅に攻め込んでくるのです。それを阻止しようとすれば新羅はどうするか。
日羅を暗殺すればよいのです。どうやって?
日羅が百済の九州侵攻計画を倭王に通報したというニセ情報を倭国内にバラまいたうえで、新羅のスパイが百済の随員をそそのかして日羅を暗殺させ、それを百済政府の仕業だったことにする。
こうして倭国と百済はギクシャクして新羅侵攻計画は頓挫する。
新羅にとって完璧なストーリーです。
百済王は、日羅が倭国で暗殺される、又は陰謀に巻き込まれることを心配していたから、倭国に送りたくなかったのではないか。
しかし、倭王があまりに強く要請するので、仕方なく警護役を随伴して出国させてみたら、その警護役が新羅の陰謀にはまって日羅を暗殺してしまいましたと。
こうして新羅侵攻計画は消えてしまいましたが、倭国と百済がこのあと不和になったという話が日本書紀に出てきません。
書紀編纂者が日羅に言わせたかったこと
うがった見方をすると、日羅はもともと新羅に通じていた可能性も浮かんできます。
しかし、日羅の真の目的が新羅の国益のためだったかどうか。倭国が半島に出兵すれば半島南部が戦場になり、倭人にも韓人にもたくさんの犠牲者がでますし、社会は疲弊します。
戦争を回避したいという単純な思いで日羅は行動したかもしれません。優秀な外交官なら、内心は戦争回避を目指していても、駆け引きとして好戦的なイメージを世間に印象づけることはありえます。
平和を願いながら好戦的人物だと誤解された結果の悲劇だったとしたら。
「これは新羅の仕業ではない」
という言葉を発したのは、
<倭国は新羅と戦争をしてはならない。防衛に徹するべきだ。>
という日羅の意図が背景にあるかもしれません。
日羅が倭国に伝えた百済による九州侵攻計画という幻も、倭国の対百済政策についての進言も要するに、
倭国は国を安定させてその国力を周辺国に見せつけるだけでいいのだ。
九州防衛にだけ専念すればいいのだ。
と言う意味ではあっても、半島情勢に軍事介入せよとは言っていないのです。
百済軍に備えて九州の軍備を整えることにしても、実際に百済軍が侵攻する心配はないのですし、万が一、中華帝国が九州に攻め込んでくる場合には役に立つのですから、日羅の進言は専守防衛を基本とする安全保障戦略としては妥当なものなのです。
日羅事件の真相
今のところ、私はこう妄想します。
倭国は新羅侵攻計画を企て、その連絡役として百済はしぶしぶ日羅を派遣しましたが、日羅は倭国首脳の意に反して
「新羅と戦争するより国内の安定に努めましょう」
と進言しました。
それは日羅が倭国と百済の国家的利益を冷静に分析した結論だったかもしれませんが、少なくとも倭国王(またはその背後にいる反新羅勢力)にとって日羅の発言は意に反するものでした。
そして、日羅が暗殺されたことで計画は立ち消えになってしまいました。
暗殺が百済によるものか、新羅によるものか、はたまた倭国の誰かによるものかわかりませんが、日羅にとっては、暗殺犯が新羅だとされると倭国と新羅の戦争になってしまうので、「新羅ではない」と言わなければならなったのではないか。
だとすると、暗殺犯は新羅侵攻計画の背後にいて、日羅を倭国に召喚しようとした勢力、つまり、大伴氏や物部氏ではないかと想像されます。
反新羅氏族の期待を裏切って日羅は新羅征討計画を否定してしまったので、百済の随員に指示して暗殺させ、下手人も始末して証拠も残らぬようにしたのです。
暗殺の実行を指示した百済の役人は逃げてしまっています。そして倭と百済はその後、何事もなかったかのようにふるまいました。
もちろんこの話は私の妄想であり、史実ではないでしょう。
ここで重要なことは、日本書紀編纂者がこの物語のために大量の文字数を費やしているということです。つまり、なにか重大なメッセージが込められているのです。
日本書紀の編纂当時に百済はすでに存在していませんが、日本と新羅は存在しています。そしてその時代にも日本はたびたび新羅征討を企てました。
日本書紀編纂者は日羅の言葉を借りて伝えたかったのかもしれません。
<日本は新羅と戦争をしてはらならない>と。
だから彼の名前を「日羅」としたのではないでしょうか。
日本と新羅の友好を願って。
古代史のスパイファミリー
倭国内部では半島政策を巡る複雑な対立抗争が起きていました。
日羅を召喚し、暗殺後に日羅を仮埋葬したのが物部氏と大伴氏です。
彼らは倭系百済官僚と密接な関係があったと想像します。葦北のアリシトはもともと大伴氏と強く結びついていました。
日羅の家を密かに訪問した吉備海部直羽島に日羅の妻が、
「あなたの根を私の根のうちに入れよ」
と言いました。
日羅のルーツは葦北のアリシトであり、おそらく彼らは大伴氏の系統です。
吉備海部直羽島のルーツはその名の通り「吉備氏」です。
「大伴も吉備も根は倭王を支える有力氏族ではないか。だから助け合おうよ。」
みたいな意味でしょうか。倭人の有力氏族は倭系百済官僚を通じて百済王国内に深く食い込み、百済、倭、両国の力で任那を復興することを夢見ていました。
任那復興は旧来の有力氏族達にとって、4世紀以来の半島侵攻作戦で祖先が獲得した既得権益の回復を意味します。
彼ら有力氏族達は血縁関係にある倭系百済官僚を使って勢力拡大に努めました。
日羅のような倭系百済官僚はほかにもたくさんいて、歴史の陰で暗躍し、様々な影響を与えた可能性があります。
一方では、半島情勢から距離を置き、国内を安定化しつつ、律令による中央集権化を推進しようとする勢力もありました。
倭王周辺に形成された新興官僚群です。
彼ら新興官僚たちは国内体制を整備し、旧氏族の権益を倭王権に吸収させなければなりません。
この二つの勢力の対立は、やがて武力をもって解決する方向へ向かいます。
7世紀の倭国を見ていると、半島に軍事介入するかしないかがしばしば重大なテーマとなっていて、その背景では半島三国の外交政策が強く影響していたと思われます。
この当時の倭国と半島三国との間では激しいスパイゲームが展開し、命のやりとりをしていました。
日羅は自分が暗殺されることをむしろ望んでいた可能性もあります。
そうなれば戦争を回避でき、彼の提言も実現するのですから。
だから、自分の暗殺について「新羅の仕業ではない」と言っておく必要がありました。
日羅の家族は古代史のスパイファミリーだったのかもしれません。