『差別』と『区別』の問題に対する解釈

皆さんは、差別と区別の解釈における対立を
ご存知だと思います。

『何処からが差別で何処からが区別なのか』

これは本来思想系の人間が躍起として出る場面ではありません。まして、解釈なんて物を世に放流して経過観察しようなんて出ていい幕な訳がありません。しかし今回私は、敢えてその矢面に出てみようと思いました。出さなくて良い首を突っ込んでみたいと思ったのです。

ここまで読んでくれた皆さんは恐らく
「広辞苑で調べれば良いんじゃないか?」
と思ったことでしょう。そこに今回私が出しゃばろうと思った理由があります。

広辞苑ないし国語辞典というものは、その分野の専門家が解釈し一片の解答を示しそれを世に放流したものです。ではその解釈は何処から来てるかと言えば書物だの歴史的観点だの色んなものは有りますけれどもそれは全部その1人のないし複数人の学者の解釈と言うことに他ならないのです。つまり、考えて出された結果論でしか無いのです。そこで私は

「これならば思想側の人間として言語学に出しゃばった偏見を投げられる。」

と思った訳です。さて、またまたここまで読んでくれた人からすれば、早くその意見を出してくれと思っていることでしょう。大丈夫です。今から出します。まぁ、言ってしまえば差別と区別違いというものは

「能動的であるか、定義的であるか」

これだけです。

現在日本の多方面で議論されディベートなどの論点にもなり得るこの問題は、本質的に言えばこの一言で全て片付きます。

それは何故か。
簡単です。
「差別」という言葉と「区別」という言葉の部分的な違いは「差」と「区」です。そして、「差」をつけられる、ないしつけることはあっても、「区」をつけるとは言いません。反例としても、〇〇区ということはあっても、〇〇差ということはありません。つまり簡単な話、上の方の人達がつけた分け方と言うものが「区」と言う概念であり、1人1人がつけるものが「差」なのです。

そして現在、世界で行われている差別と言うものは広く見れば波のように見えるかもしれません。しかし、細かく見れば全て人間の集まりです。この場合、上の方も何も存在せず、単に人の流れが格差を生み出しているだけです。ほら、「格差」これも、人々が行っているだけのことです。これに対して古代から存在するカースト制などを挙げてきて政府的なものあげてきたり、アパルトヘイトなどを挙げてくることもあると思います。ですが、これは上の人達の悪意であり、その「達」というのは結局人々の集まりです。結果は同じです。これに対して区別はモノの振り分けとして上の人が行っているだけです。実際新宿区と渋谷区の人々が国民的意識に近いものをもって殴り合うなんてことないでしょう。何故ならそれは上の人達がつけた名札に過ぎないのですから。それに対して差別は明らかなる悪意を持って行われるもので有り、個人間でも起こり得ることなのですから。

これらにより私は証明出来たと考えますが、私はこの差別と言うものは永遠に無くならないものだと考えていて、それを行うなというのも間違ってるというのも、両方間違っていると考えます。綺麗事を抜いて現実を突きつけるなら、

「あれだけ差別に反対していた黒人がアジア人を差別する」

これだけで討論はお終いです。あれだけ差別されていた人々が1つコマが進んだとわかるや否や嬉々としてアジア人を馬鹿にします。恐らくこれを活動家の人達にいうとテキトーな統計や、私は違うなどの詭弁を捲し立ててきますが、証拠はネットにいくらでも転がっています。嘘で出来ているのがネットですがその全てが嘘を構成要素としている訳ではありません。現実があるのです。

さて、ここまでお付き合いいただきありがとうございます。先程の文言は、活動家へのジョーカーとして、懐で温めておいてください。

それでは失礼します。

文/思想家A

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