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THIS IS プロ野球!
THIS IS プロ野球!
昭和63年10月19日、当日の試合中継の実況を担当し、惜しくも鬼籍に入られたABCの安部憲幸アナウンサーが発した言葉です。
昭和63年10月19日川崎球場、この日を聞いてピンとくる方は同士だと勝手に思っています。
今はタイトル写真の通り富士通スタジアム川崎となってしまった川崎球場で、今は球団としてはなくなってしまった近鉄バファローズが球史に残る文字通り息をつかせぬ激しい戦いを繰り広げ、日本のプロ野球史上未だに更新されないし将来も更新されないであろう22時41分から22時56分までという最も短い15分間の消化試合、否、消化時間のあった日。それが昭和63年10月19日でした。
当日の詳細は検索あるいは動画サイトで調べていただければと思いますが、その年の近鉄は西武と激しい優勝争いを繰り広げ優勝がかかった最後の2日間は3試合、今ではありませんが10月19日は1日で2試合、ダブルヘッダーという強行日程の中、3連勝が優勝のための唯一無二の条件。同じ関西でも阪神に比べ圧倒的に知名度の低い選手達がそれこそ全国の注目を浴び、引き分けすら許されないという過酷という言葉ではあまりに弱すぎる状況の中、全力という言葉では言い表せない執念で目の前の対戦相手であるロッテオリオンズ、覆すことのできないルール、見えない時間、その3つと戦っていました。
前日は勝利し、迎えた19日。第一試合は先制を許すも逆転勝利を収め、その興奮も冷めやらぬまま悲願の優勝まであと1勝という運命の第2試合。仕事を早く終えて川崎球場に着いた私は急遽追加発売された入場券を手に入れるという幸運にも恵まれ、3塁側内野スタンドで試合の行方を見守っていました。
両者とも一歩も譲らず一進一退の中、8回表にブライアント選手のソロホームランで勝ち越し、その裏から満を持して当時の絶対エースであった阿波野投手が第一試合に続き救援で登板。誰もがこれで近鉄の優勝を信じた中で高沢選手に投げた1球がレフトスタンドに吸い込まれ同点・・・。
後日テレビで見たのですが、その時の高沢選手はホームランを打った喜びは全くなく、目を伏せてダイヤモンドを1周し、ベンチに戻っても表情は固いままでした・・・。
その後、9回の裏、有藤監督の抗議による時間の浪費(異論はあると思いますが、近鉄ファンとしてはあえてこの表現とします。ご容赦ください)により制限時間を迎え、あと一歩、否、指先までかかっていた優勝がするりと抜けて川崎から所沢に行ってしまった・・・。
最後の打者が三振に終わり試合終了し、選手がスタンドに向かって一礼した時は涙が止まりませんでしたが、もしかしたらあと一歩までの優勝を逃してしまったことの涙とこれでしばらく近鉄の勝敗に一喜一憂しなくていいという安堵からくる涙だったのかもしれません。
敗けならまだ諦めもつきますが、あの試合の実況を担当した故安部憲幸アナウンサーの言葉通り近鉄は敗けなかった。
目の前にあった優勝を逸して、自暴自棄になってもよかったのに近鉄にとって虚しい試合を終了させるためだけに存在する延長10回裏をベンチで仁王立ちして最善手を講じ2人の投手を投入するという継投策で終了させた仰木監督に勝負に生きる者の執念を感じたのもこの時です。
何度も繰り返しになりますが、対戦相手のロッテには敗けなかった。
しかし、ルール、そして時間には抗うことができなかった。
それでも最後まで投げ出さずに引き分けというその時の最善の形で130試合目を終えた。それが昭和63年10月19日の15分間です。
翻って、今の自分はどうか?
不利が重なると「どうでもいいや」と思ってはいないか?
あの時の仰木監督のように不利な状況でも最後まで投げ出さずに最善手を講じているか?
自問自答しています。
この文章を書いている今も、当時の状況が鮮明に思い出され涙が出てきますが、もし、願い事を一つかなえてくれるという奇特な神が現れたら、もう一度、あの時の川崎球場のスタンドに戻らせてもらいたいと願うでしょう。
近鉄バファローズは球団としては平成16年に消滅してしまい、同時に私のプロ野球への興味も消滅しましたが、それでもバファローズは今でも、あの時のまま自分の中では存続しています。