【考察】「なぜ科学はオカルトを退けたのか」の補足



▼捕捉1 オカルトが退けられた原因について

科学的な発見は、宇宙の仕組みを神の存在ではなく自然法則で説明できることを示し、人間中心的な考え方や合理的な思考をうながしてきました。しかし、近代のヨーロッパ科学の基礎には古代ギリシャ哲学やイスラム科学があり、これらは本質的には自然を支配する神の理を研究する神学につながっていました。コペルニクス、ケプラー、ガリレイ、デカルト、ニュートンといった近代科学の確立に貢献した物理学者たちもまた、宇宙が無から無知性に生まれたとは考えていませんでした。科学と神学は対立するものではなく、むしろ互いに補い合う関係にあったのです。

ニュートンの神学論→
https://miyazaki-u.repo.nii.ac.jp/record/1292/files/KJ00000228630.pdf

科学と宗教が分離し、オカルト的な世界観が衰退した背景には、18世紀の商業主義や市民革命の興隆も関わっています。市民的・経済的な自由化は、従来の共同体的な価値規範や伝統文化の衰微につながっていきました。啓蒙思想が進展するなかで、人文主義や自由主義が確立されると、キリスト教はより私的な領域に置かれ、西洋社会は科学技術への信頼を深めていったのです。啓蒙思想とは、非合理的なものを批判し、理性や科学を重視する思想運動であり、歴史や伝統、信仰を相対化しつつ、普遍的な人間の理性や権利を追求するものです。これは、個人の権利や経済的自由を重視し、社会の近代化を促進する思想体系としても機能しました。

▼捕捉2 イデアについて

イデアとは、個々の現象の背後にある真の実在を指し、プラトン哲学の中心的な概念です。感覚に基づく現象は、イデアを基にした不完全な模倣にすぎないとされています。イデアは物質的な世界を超越した存在であり、外界の感覚的な経験や観察だけではその本質を理解することは難しいのです。身体や五感を通じて得られる物質的な世界は、常に変化し続ける相対的なものです。したがって、感覚による相反する現象から意識が離れ、魂や精神の深層にある純粋な知性を通じてイデアに直接関わることが、真に客観的な認識とされ、これを叡智と呼びます。意識が内面深くに向かうと、不可視かつ絶対的な知識、単一不可分で不変の領域を体験するとされます。

たとえば、「美」を例に挙げると、ある状況で「美しい」とされるものが、別の状況や視点からは「美しくない」とされることがあります。これは、物質的な世界が常に変化し、相反する現象を持ち、安定性や本質が欠けていることを示しています。真の知識や認識は、このような相対的な美に基づくものではなく、個々の状況を超えた「美そのもの」に関わるものでなければなりません。すべての状況を超えるためには、すべての状況を超えた存在を理解する必要があります。この魂の深いところにある超越的な真実の美こそが、イデアの本質なのです。

ちなみに、五感や欲望を超えて認識を純化しなければ、何度でもこの世に生まれ変わってしまうという考え方は、プラトン哲学が古代インド哲学と共通する点です。また、意識の内面に広がる超自然の世界を探求する神秘主義の立場では、古今東西に関わらず、身体に結びついた五感や欲望が真の認識を妨げ、宇宙や生命の根源を理解できない原因だとされています。

▼補足3 量子について

量子の奇妙な性質に関しては、物理学者たちの間でさまざまな解釈が行われてきました。そのなかでも、主流であるコペンハーゲン解釈では、量子は一個の粒子でありながら同時に波動としてふるまう特性をもち、測定されるまで不確定な状態にあるとされています。この解釈によれば、量子力学で現象が確率的にしか予測できないのは、理論や測定技術が不完全だからではなく、電子や光子といった量子そのものの特性、つまり自然界の本質的な特性に起因するとされています。

波動と粒子の二重性は「波動関数」と呼ばれる関数で表され、波動関数の振幅は粒子がどこで見つかるかの確率の分布として理解されます。つまり、波動関数は粒子の異なる状態が重なり合ったものであり、それぞれの状態の測定される確率を示しています。波動関数の状態はシュレーディンガー方程式にしたがって決定論的に進展しますが、測定された結果は確定せず、その瞬間に確率分布に基づいて決まります。量子が一個の粒子として確定した状態で測定されるのは、重ね合せ状態の波動関数が特定の状態に収縮するからです。

このように、量子力学では測定が量子の状態に急激な影響を与えるため、測定装置などの観測者の存在が不可欠であることが示唆されています。しかし、波動関数の収縮についてはシュレーディンガー方程式では記述できず、どのようにして起こるかはまだ解明されていません。波動関数の収縮には理論的な根拠がないので、測定、観測と観測者の定義も明確ではなく、いつどこで収縮するのかも不明です。ただし、測定装置や多粒子などの環境との相互作用が量子系を乱し、重なり合った状態の干渉性を失わせると考えられています。そこから一つの確定した状態が選ばれる過程は、まだ理解されていません。

ここで注意すべき点は、コペンハーゲン解釈が波動関数という量子の波が物理的に実在するかどうかについて言及しない点です。したがって、重ね合せ状態や波動関数の収縮がじっさいに起こっているのかどうかも確定していません。測定によって確定した物理量のみが客観的な実在であり、波動関数は情報を得る瞬間にのみ意味をもつとされています。一方で、波動関数によって記述される宇宙の可能性が測定後も重なり合った状態のまま保存されると考える多世界解釈や、粒子の運動を誘導するパイロット波を仮定するボーム解釈など、波動関数を実在とみなす解釈も存在しています。

▼補足3 古典物理学における自然と人間の位置づけ

古典物理学の立場では、客観的でそれ単独で独立した実在こそが世界の本質であるため、主体や主観と自然の間には明確な境界が引かれてきました。主観的な経験は二次的で信頼性が低いとされ、自然を理解するためには、客観的で測定可能なデータや法則が重視されます。内的な経験や感覚は、科学的探求の精度を低下させる「主観的なもの」として排除されるのです。

このような考え方により、近代以降、自然と人間はそれぞれ独立した存在として切り離されるようになりました。科学における客観性や実在性とは、研究や実験の結果が個人の主観や感情、環境の違いに影響されず、普遍的に確認可能なものであることを指します。具体的な観察や実験では、決定論的な因果関係に基づいた再現可能性が重視され、同一の結果が得られることが期待されます。

▼補足4 現代物理学における自然と人間の位置づけ

客観性や再現性を絶対視する頑なな科学的態度は、20世紀に入り、相対性理論と量子力学の登場によって軟化したように見えます。相対性理論では、観測者の運動状態によって時間と空間の測定結果が変わることが明らかになり、従来の絶対的な客観的視点の概念が崩れることなりました。量子力学においても、測定結果が観測者によって決定される部分があることを示し、古典物理学の枠組みが大きく揺らぐこととなりました。

とくに波動関数の収縮や量子もつれといった現象は、測定行為が確率的に分布する量子系の状態を確定させるため、決定論的な因果性が破られるだけでなく、観測者と対象の明確な分離という前提が崩れ始めたのです。観測者とその対象の境界が不確定的になり、現実のなりたちにおける観測者の役割が再評価されるようになりました。

さらに発展した場の量子論では、物質とエネルギーには確固たる実体がなく、相互に作用しあう場の振動として理解されます。これにより、自然現象は個別の物体としてではなく、全体として相互作用する複雑なネットワークとして描かれるようになりました。場の量子論では、観測者もまた場の一部であり、観測行為も全体的な場の相互作用の一環として理解されるため、観測者と対象の境界はより曖昧になったと言えるのです。

量子力学においては、観測者が単に測定結果を受動的に取得するのではなく、測定行為そのものが測定結果を決定する役割を果たすことになります。自然法則の根底にある因果律は、巨視的なスケールでは厳密に守られています。ある時点における物体の位置と運動量(原因)を知ることができれば、ニュートン力学の運動方程式にしたがって未来の物体の運動状態(結果)を完全に予測できます。

このため、古典物理学では、観測者と対象との相互作用によって得られる測定結果も決定論的に制御できます。観測者はあくまで対象とは独立しており、測定が結果に影響を与えません。しかし、原子や素粒子といったきわめて小さなスケールでは、この決定論的な視点が通用しないことが量子力学によって明らかになりました。微視的な現象にも因果性はあるものの、原因から一意的に結果が定まるわけではなく、複数の結果が確率分布として現れます。

量子系では、観測者が介在することで測定結果が影響を受け、測定するたびに物理量が変わるため、同じ条件であっても異なる結果が出ることがあるのです。観測者の行為が確率分布を記述する波動関数の収縮をひきおこし、状態が布定するため、古典的な再現性を厳密に求める手法は通用しません。このため、素粒子物理学の実験では、統計的手法を用いて結果の確実性を証明しています。また、量子系の確率分布を記述する波動関数の性質から、位置と運動量といった関連する物理量は同時に完全な精度で測定できないとする不確定性原理が導かれます。

たとえば、波の広がりを狭めれば量子の位置はより正確に特定できますが、その分、波のばらつきが増えて運動量が不確定になります。逆に波を広げると量子の運動量は特定しやすくなりますが、今度は位置が不明瞭になってしまいます。不確定性原理は、測定する物理量の選択がほかの物理量に影響を与えることを意味します。

測定時に両立しないのは、不確定性原理の関係だけではありません。「古典物理学の因果的な描写」と「量子物理学の確率的な描写」、また「量子を粒子として記述する行列力学」と「量子を波として記述する波動力学」も、また一見対立しているように見えます。量子はそのあつかい方や視点に応じて、異なる性質や物理量が現れます。

理論物理学者のニールス・ボーアが提唱した相補性の概念によれば、量子系を完全に理解するためには、互いに排他的に見える性質を補完的に考慮する必要があります。個々に見れば相容れないような排他的な性質は、いずれも量子系の理解には不可欠であり、互いに補完的なものとして説明されます。つまり、異なる測定条件下で得られる個々の結果は互いに補完的であり、それぞれが全体像の一部を形成しているととらえなければなりません。

たとえば、光電効果の測定では光は粒子としてふるまいますが、干渉縞の測定では波としてふるまいます。このように、排他的性質は同時には測定できません。量子力学の標準的な解釈であるコペンハーゲン解釈では、量子の性質は測定によってのみ決定され、測定前には確定した状態をもたないと考えられています。

また、相補性のもうひとつの重要な意味は、観測者と観測対象が切り離せないという点です。測定装置や環境が量子系に直接影響を与え、その結果を左右します。つまり、観測者がどの測定方法を選ぶかによって、量子の状態が決まります。この選択が量子系に本質的な影響を与えるため、観測者の視点が量子のふるまいに影響を与えることになります。このため、観測者と観測対象の間に明確な境界を引くことができなくなったのです。