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【考察3】なぜ科学はオカルトを退けたのか(現代編)💢💢

20世紀に登場した相対性理論や量子力学は、それまでの機械論的自然観に大きな変化をもたらしましたが、現代の物理科学においてもオカルト的な考え方とは依然として対立しています。本稿では、主に量子力学が示す新しい自然観と、古来からの伝統である有機体論的自然観を対比していきます。

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機械論的自然観とは、自然界が主体や主観に関わりなく、客観的に存在するという見方を示すものでした。自然現象は人間の意識や心から独立した存在であり、客観的な法則や概念から説明されます。この観点に基づいた近代科学の手法では、自然は静的な法則のみにしたがって動く機械的な系(システム)であり、測定装置や人間などの観測者はその系外部から測定する立場に置かれます。観測者は観測対象の一部ではなく、外部に位置する独立した存在であり、実質的に測定行為が対象に影響を与えたり、逆に影響を受けたりすることはありません。観測者の役割は、ただ受動的に対象の情報を読み取り、それを客観的に分析して理解することにあります。ニュートン力学に代表される古典物理学においても、観測者と対象は明確に区別され、それぞれ独立した系としてあつかわれます。たとえ両者に相互作用による影響があるとしても、それは無視できるほど微弱なものであるか、原理的には完全に予測や制御ができるものと考えられています。

近代科学の立場では、主観を超えた客観的で独立した実在性こそが世界の本質であるため、主体や主観と自然の間には明確な境界が引かれてきました。主観的な経験は二次的で信頼性が低いとされ、自然を理解するためには、客観的で測定可能なデータや法則が重視されます。内的な経験や感覚は、科学的探求の精度を低下させる「主観的なもの」として排除されるのです。このような考え方により、近代以降、自然と人間はそれぞれ独立した存在として切り離されるようになりました。科学における客観性や実在性とは、研究や実験の結果が個人の主観や感情、環境の違いに影響されず、普遍的に確認可能なものであることを指します。具体的な観察や実験では、決定論的な因果関係に基づいた再現可能性が重視され、同一の結果が得られることが期待されます。これは20世紀に入り、相対性理論と量子力学の登場によって、その頑なな科学的態度を軟化させたように見えます。たとえば、相対性理論では、観測者の運動状態によって時間と空間の測定結果が変わることが明らかになり、従来の絶対的な客観的視点の概念が崩れることなったことです。

量子力学においても、測定結果が観測者によって決定される部分があることを示し、古典物理学の枠組みが大きく揺らぐこととなりました。とくに波動関数の収縮や量子もつれといった現象は、測定行為が確率的に分布する量子系の状態を確定させるため、決定論的な因果性が破られるだけでなく、観測者と対象の明確な分離という前提が崩れ始めたのです。観測者とその対象の境界が不確定的になり、現実のなりたちにおける観測者の役割が再評価されるようになりました。さらに発展した場の量子論では、物質とエネルギーには確固たる実体がなく、相互に作用しあう場の振動として理解されます。これにより、自然現象は個別の物体としてではなく、全体として相互作用する複雑なネットワークとして描かれるようになりました。場の量子論では、観測者もまた場の一部であり、観測行為も場の相互作用の一環として理解されるため、観測者と対象の境界はより曖昧になったと言えるのです。

量子力学においては、観測者が単に測定結果を受動的に取得するのではなく、測定行為そのものが測定結果を決定する役割を果たします。自然法則の根底にある因果律は巨視的なスケールでは厳密に守られ、ある時点における物体の位置と運動量(原因)を知ることができれば、ニュートン力学の運動方程式にしたがって未来の物体の運動状態(結果)を完全に予測できます。このため、古典物理学では、観測者と対象との相互作用によって得られる測定結果も決定論的に制御することができました。しかし、原子や素粒子といったきわめて微小なスケールでは、この決定論的な視点が通用しないことが量子力学によって明らかになりました。微視的な現象にも因果性はありますが、一意的にその結果が定まるわけではなく、測定されるまでは複数の結果が確率分布として現れます。じっさい、量子系は同じ条件であっても測定するたびに物理量が変わり、可能な物理量が一定の確率で生じるため、再現性を厳密に求める古典的手法が通用せず、素粒子物理学の実験では統計的手法を用いて結果の確実性を証明しています。

また、量子系の確率分布を記述する波動の性質から、位置と運動量といった関連する物理量は同時に完全な精度で測定できないとする不確定性原理が導かれます。たとえば、波の広がりを狭めれば量子の位置はより正確に特定できますが、その分、波のばらつきが増えて運動量が不確定になります。逆に波を広げると量子の運動量は特定しやすくなりますが、今度は位置が不明瞭になってしまいます。不確定性原理は、測定する物理量の選択がほかの物理量に影響を与えることを意味します。測定時に両立しないのは、不確定性原理の関係だけではありません。「古典物理学の因果的な描写」と「量子物理学の確率的な描写」、また「量子を粒子として記述する行列力学」と「量子を波として記述する波動力学」も、また一見対立しているように見えます。量子はそのあつかい方や視点に応じて、異なる性質や物理量が現れます。理論物理学者のニールス・ボーアが提唱した相補性の概念によれば、量子系を完全に理解するためには、互いに排他的に見える性質を補完的に考慮する必要があります。

個々に見れば相容れないような排他的な性質は、いずれも量子系の理解には不可欠であり、互いに補完的なものとして説明されます。つまり、異なる測定条件下で得られる個々の結果は互いに補完的であり、それぞれが全体像の一部を形成しているととらえなければなりません。たとえば、光電効果の測定では光は粒子性を示しますが、干渉縞の測定では波動性を示します。このような排他的な性質は同時に測定することはできません。量子力学の標準解釈であるコペンハーゲン解釈では、量子の客観的な実在は測定によってのみ決定されるため、測定前の状態では確定した実在をもたないと考えます。また、相補性のもう一つの重要な意味は、観測者と観測対象も切り離して考えることができないという点にあります。測定装置の設定や環境の状況が系に直接影響を与え、その結果に制約を与えます。測定条件によって量子が粒子性や波動性を示すのは、測定手段自体が系に本質的な影響を与えるためです。つまり、観測者がどの手段を選択するかによって、その選択が系に本質的な影響を与え、制御不可能な干渉が生じることになります。このため、観測者の視点が量子系のふるまいに影響をおよぼし、観測系と対象系の間に明確な境界が引けなくなったのです。

しかしながら、相対性理論や量子力学も、ニュートン力学のように、初期条件をもとに方程式を解いて自然を理解しようとする従来的な手法からは大きく離れていません。相対性理論では、観測者の運動や時空の変化を説明するためにアインシュタイン方程式が使われており、これにより重力や光の曲がりなどの法則的な現象だけが理解されます。一方、量子力学もその哲学的な意義が議論されていますが、じっさいにはシュレーディンガー方程式を解くための実用的な道具として利用されています。相補性という考え方を導入し、また、局所的な実在性を否定した現代物理学であっても、依然として抽象的で定式的な考え方に頼っているのです。このため、現代物理学の手法も結局のところ法則性に基づいて生じる再現可能な現象だけがあつかわれます。統計的な手法も、完全に一度きりの出来事や個別のケースには対応できず、あくまでも統計化できる結果だけが研究対象となっています。近代科学という手法は、このような制約のなかで運用されているため、測定される対象系、そして、測定装置や人間などの観測系もまた安定した系に徹することが、客観的な測定結果や一貫した解釈を得るための前提条件となっています。ここに物理科学の一意性が現れます。このような現代物理学のアプローチでは、観測者を含めた個々の事象の独自性や予測困難な複雑性との相互作用性は、自然法則に直接反映されることはありません。

有機体論的自然観における観測者とは、人間、動植物、個々の自然現象、世界そのものであり、それぞれが有機体として機能する相互依存的なシステムの一部として自然界が理解されます。観測者は環境や状況によってつねに変化しつづける有機的でダイナミックな存在であり、この観点から考えると、観測者は単なる受動的な情報の収集者ではなく、自然の一部として積極的にその発展のプロセスに関与するのです。観測者を含めた環境の状態(一回性、個別性)が系全体に強く影響をおよぼすならば、普遍法則そのものが相対化されます。つまり、特定の条件下でのみ成立する「局所法則」が存在するならば、普遍的かつ統計的な規則性は適用できなくなるのです。有機体論的自然観では、人間を含む自然全体を一つの有機体としてとらえます。自然の各部分は全体と深く結びついており、それぞれが独立して存在するのではなく、相互依存的に機能します。この考え方に基づくと、個々の部分を切り離して考えるのではなく、全体の一部として理解する必要があります。この点は、量子力学における観測者と対象の関係や、場の量子論における全体性の概念と共鳴する側面があると言えるかもしれません。

しかし、観測者である人間が、複雑多様で有機的な自然の系の内部に存在する場合、客観性や普遍性、再現性を重視する測定や研究の方法を変更せざるを得ません。自然と人間は別々の存在ではなく、相互に関わり合っているため、人間もまた観測対象であるシステムの一部と見なされます。この場合、人間は測定する主体であると同時に、測定される客体でもあり、観測者と観測対象の間には双方向的で動的な関係性が生じます。観測者の存在や行動が有機体の系全体に影響を与え、その影響がふたたび有機体の一部である観測者に還ってくるため、この相互作用は無視できません。複雑多様な動力学的対象をあつかう複雑系の観点からすると、有機体論的な自然は静的な法則のみで予測可能なものではなく、変化しつづける複雑性をもち、さらには観測者もその一部として影響を与え合い、共に変化します。この視点からは、観測者の視点や行動が自然の理解に不可欠であり、自然と人間の相互関係が再評価されるべきであると言えます。

したがって、有機体論的自然観における観測者は、単に外部から自然を客観的に分析するのではなく、みずからが対象系の一部であることを自覚しなければなりません。測定行為が系全体に与える影響や、自身の内的経験が理解にどのように作用するかを考慮する必要があります。このアプローチは従来の科学的方法論とは異なり、より複雑で多層的な現実の理解を目指すものです。このような観点から、物理学、ひいては近代科学の枠組みを拡張し、観測者を含めた個別の状態を考慮したモデルが求められます。波動関数の収縮や非定常系、創発現象などはその一例ですが、対象をより具体的に理解するためには、単なる数値的・数理的な理解を超えた主体・主観までを含めた単一不可分の全体性という新しい視点が必要です。さらに、科学の方法論そのものを見直すことも重要です。単に再現性のある実験を追求するのではなく、観測者を含めた個別の現象がもつ独自性や予測できない複雑性をも含めた包括的なアプローチが、新たな発見を導く鍵となります。物理科学の進展には、観測対象と観測者、客観と主観、普遍と個別、全体と部分といった矛盾する二項対立を乗り越える思考が不可欠です。