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【考察5】この世界を説明、理解するための方法は、本当に科学>>∞>>オカルトか?

科学の自然界に対するアプローチは万全なのでしょうか?
古代の賢人たちは、自然界を単純な因果律に基づいた機械的なシステムではなく、活きた存在、そして、生物の体制である有機体としてとらえてきました。
本稿では、科学の限界性と自然界の全体的な調和を明らかにしていきます。

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人類は紀元前から自然を生きた存在としてとらえ、有機体の仕組みに基づいて自然の原理を説明してきました。古代ギリシャのイオニア自然学では、自然の変化をプシュケーと呼ばれる活力によって説明していました。アリストテレスは、自然界のすべての動きが最終的な目的(テロス)に向かって進むと考え、自然を生きもののように成長、発展するものとしました。アリストテレス自然学やプラトン主義、ヘルメス思想などの有機体論的自然観は、キリスト教にも大きな影響を与えた、中世やルネサンスの代表的な思想でもあります。近代においては、カントが有機的な自然には目的性が働いており、全体と部分が相互に関係し合う統一体であると考えました。現代では、ホワイトヘッドが有機体の創発性や過程性について考察し、環境とともに生成しながら秩序を作り上げる組織体として自然を再評価しています。東洋の哲学も同じような考え方があります。たとえば、ヴェーダの宇宙論、仏教の縁起の法則、儒教の天人合一、道教の気などの概念は、人間を含む天地万物が互いに関係し合い、全体として調和を保つという有機的な自然観を示しています。近代科学以前では、人間と環境、部分と全体、主観と客観、精神と物質などの対立する概念は、相互に包摂されるものだと考えられていました。

一方、現代における自然界の理解は、自然が機械的に決まりきまった動作をするという機械論や、主観と客観を対立項とする二元論を調停・克服しようとする伝統的な考え方とは異なります。現代物理学は、客観的かつ物質的な事象だけに焦点を当て、それを支える普遍的な法則を明らかにすることを目的としています。一見複雑多様に見える事物や現象から共通する性質や法則を見つけだし、自然の仕組みを解き明かそうとしているのです。つまり、自然は主体や主観といった概念から切り離され、客観的に測定可能な実在のみで構成されていると考えられています。そして、現代人はこの客観性・普遍性・再現性・理論性・反証可能性を基準にした近代科学こそが、自然界を理解し説明する唯一の正しい方法だと考えています。しかし、もし宇宙のすべての現象が相互に影響し合っており、複雑な相互作用によって創発された有機的な秩序の顕れだとしたらどうでしょうか。伝統的な有機体論的自然観のように、人間の意識や心を含むすべてのものが分割も分析もできない一体の存在であり、その状態が時空全体の状況によって決まっているとしたら、近代科学の知識は自然界の半面しか説明していないことになります。ある現象の状態が、観測者を含む時空全体の状況に左右され、測定結果へと単一不可分の全体性(創発現象)として有意に影響を与えるならば、そこで科学的な方法は通用しないのです。

ここから、自然を有機体論的なシステム(生物システム)として見ていきます。生物は、分子、細胞、組織、器官、器官系、個体といったミクロからマクロまでの階層構造をもっていますが、ミクロな下位レベルの動きとマクロな上位レベルの動きの関係において、上位レベルの動きは下位レベルの法則だけでは説明できません。そして、上位レベルは下位レベルに対して境界条件を設定し、このことを「周縁制御の原理」と呼びます。自発的な秩序の形成(自己組織化)をもたらす「創発現象」というのは、ミクロな要素どうしの局所的な相互作用がマクロな秩序を生み出し、その秩序が要素のふるまいを制約するという双方向の動的なプロセスによって、新しい機能や特徴、行動が生じることを指します。これが、生物をつかさどる有機体論的システムの特徴です。創発が起きる有機体システムは階層構造をもち、創発した新しいプロセスが元のプロセスに重なるようにして入れ子状になっています。

各階層の状態は、同じ階層内の要素どうしの機械論的で単純な局所的相互作用(単純系)だけでなく、複数の層にまたがる大域的な相互作用(複雑系)によっても決定されます。下位の局所的な相互作用を通じて、上位の大域的な動きがボトムアップ的に現れますが、このようにして生まれた秩序が再び個々の要素をトップダウン的に制御します。上位の全体的な運動が下位の要素に戻り、それらの動きを境界条件として制約するという、双方向の動的プロセス、つまり、ミクロ・マクロのフィードバックを経るわけです。有機体(生物)はその系の動きがその系自身に働きかけ、また、その系を変化させるという自己言及性・自己改変性をもち、この再帰的なフィードバックループのプロセスを通じて、みずからの存続や発展を決定する条件や規則を自分自身で生みだします。

この有機体システムでは、重層的な相互作用による非線形性があるため、系全体が一体不可分のものになります。また、自己組織化のプロセスは、平衡状態から離れる方向に発展するため、過去の経歴に左右される経路依存性(非可逆性)があり、特定の時点でしか生まれないような強い一回性(再現不可能性)に依存しています。また、再現可能で客観的な記述をおこなうためには、測定行為を含むさまざまな外乱が観測対象や観測者に与える影響を予測しながら測定をおこなうことが前提になります。測定行為を含めた環境要因をノイズとしてあつかい、それを除外や無視、計算したりする必要があります。こうして、クリーンで単純かつ安定した系を対象にして初めて理論を構築できるし、普遍的な法則がなりたつのです。しかし、部分のわずかな変動が系全体に影響を与える非線形的な現象、いわゆるバタフライ・エフェクトが存在する場合、対象に予測困難な影響が生じる可能性があるため、かならずしも理論がなりたつとは限りません。さらに、生物のように自律的に特有の平衡状態を保ちながら動的に発展する「個別性」をもった対象であれば、同じ状況下でも異なる反応を示すことがあります。

もし、観測者自身が研究対象である有機体システムの系内部に含まれているなら、観測系と対象系を分離・対立させることができず、測定行為は自己言及、自己改変につながります(客観性の否定)。有機体システムの内部では、測定行為が自分へと還ってくるミクロ・マクロ・フィードバックが発生するため、その測定結果が観測者の認識や行動に影響を与え、それがさらに新たな測定結果に反映されるという循環が生じます。このように、観測者と観測対象の関係は相互依存的であり、もはや対象の系外部から客観的に測定することはできません。その結果、観測者そのものがシステムの一部として作用し、系全体の動きに影響を与えることになります。したがって、客観的な測定や観察は不可能であり、観測者の主観が不可避的に含まれるため、有機体システムを理解するには観測者自身の内的経験を含めた複雑な動きを考慮する必要があります。つまり、観測者と対象が一体不可分の状態では、対象を理解することは自分自身を理解することであり、その逆に自分自身を理解することは対象を理解することでもあり、その説明には主観的な内容が含まざるを得ないのです。

観測者が有機体システムの系内部にあって、これを研究するとなると、観測者と観測対象が互いに状態を生みだすという相互包摂的に影響を与え合う動的な関係性によって測定されなければなりません。そのため、観測対象は潜在的な能動性(活力や生命力)をもつ生きた存在として相互作用することが前提になります。同時に、観測者は能動的な主体でも受動的な客体でもなく、観測者自身を含む系全体の状態が非線形現象として協動的に変化していく、系全体と一体となった動的な状態にあることが求められます(自身と対象を区別する自我意識が解消された、主客未分の境地、いわゆる無分別や無我の状態)。有機体システムで起こる現象を理解するためには、それと動的に関わるシステム内の一要素として測定する必要があるのです。これに関与するということは、対象との関係がひとつの流動的な連続体として営まれ、系的に開かれたマクロ・ミクロのフィードバックループによって、全体が包括的に連携していることを意味します。このため、観測者は内部から観測系と対象系の協働を通じて、測定、観察しなければならないのです。

この主客未分の次元は、あらゆる部分要素やレベルの現象が重層的に影響を与え合い、時間とともにその因果関係が変化していくという、ダイナミックなミクロ・マクロのループによって動作しています。そのため、基本的な法則や原理、個々の事物のふるまいを理解するだけでは、主客未分の秩序を予測することはできません。このような理由から、測定や観察という行為そのものが、観測対象だけでなく、相互に観測者の状態も変化させてしまうことになります。対象系の外部から測定できないということは、科学的な手法の前提である客観化がなりたたないという問題を含んでいます。また、普遍性や客観性、再現性を確保する観察や実験をおこなうことが不可能であり、より基本的な法則で多くの現象を説明するという単純化や一般化だけでは対応できません。呪術や宗教が自然界にアプローチする方法は、まさに科学とは正反対です。科学は普遍性や再現性を重視しますが、有機体論的自然観に基づいた呪術(マナイズム)や宗教は多様性や一回性、理論性ではなく多義性、そして客観性ではなく主客一体の相互作用を通じて世界を認識し、理解します。

機械論や二元論に対立する呪術や宗教、哲学などの思想では、物質的な世界は二次的なものであり、わたしたちが普段認識する現実は宇宙の本質ではないと考えられています。主体と客体、つまり自我と世界の対立を超えて、科学的な方法に頼らない現実や真実の認識方法があるという考えが根底にあります。有機体システムとは、主と客、自と他、心と物、個々の存在と万物といった対立する概念が統合されて初めてその理解が可能になっています。ここでは、内的経験(主観)と外的経験(客観)が対立するものではなく、全体として一体化してとらえられるのです。外界を受容する身体的感覚や自我だけに囚われていると、世界はそれを観察する主体と対立するものとして認識されます。自我と世界が分離され、自分が見る主体であり、世界が見られる客体として対立します。自我に囚われ、悟りを得ていない凡夫の認識は、自我意識によって認識する主体と認識される客体を対立させ、世界をさらに個々に区別される事象として分割して認識します。自我意識からの視点は、この主観と客観の対立を基盤に、さらに世界に個別に区別できる事象としてさまざまな境界線や識別線を設け、それを「現実」とみなします。しかし、それは世界のあらゆる事象が固定された外在的な存在として認識されてしまうことを意味します。

対照的に、真の実在である超自然の世界を体感するためには、身体感覚や自我、そしてそれにともなう物欲や我欲を捨て去り、自他の境界を超えた一体感をもつことが必要になります。主客を識別する作用をもった自我や、自我を中心にすえた心のはたらき(我執、煩悩)から離れなければなりません。この状態では、自分という主体と外界のはたらきが統合され、対立が消えます。有機体システムは意識・心の奥深くの深層に存在し、表層意識の自我を超越して無我、忘我、脱魂などと呼ばれる変性意識に達することで、物自体となって見る、つまり世界そのものとして見るという視座が得られるのです。この視点からは、観測者と観測対象が流動的に一体化し、すべてが一体のものとして認識されます。こうした有機的なダイナミクス系の視点では、観測者と観測対象、そして世界との間に類推関係が生まれ、内的経験と外的経験が結びついて、主と客を含めた世界全体が統一された体系としてとらえられるようになるのです。

これは、自我と外界の対立が解消された状態であり、世界全体を一体として理解する状態です。表層意識の要素である主体(自我)のフィードバックループ(非線形性)が増大すると有機体システムの系全体と一体の動的状態になります。表層意識で起こっていることと深層意識で起こっていることが非線形現象として協同して一致するため、主と客を区別する表層の自我意識が消失し、主観と客観を分離したフィルターを介さない直接的な経験(純粋経験)が可能になるのです。自我意識からとらえられる機械論的な自然においては、特定の原因から結果への一方向の関係性があり、再現可能な因果関係を確認することができます。このような単純な因果律にしたがっている場合、現象は独立した単独の要素や一義的で不変の法則に還元することが可能です。しかし、ある要素の出力がシステム全体からふたたびその要素(原因側)へと非線形に入力される、いわゆるミクロ・マクロ・フィードバック(創発現象)があると、因果の連鎖が複雑に絡み合い、明確な関係性が失われてしまいます。結果として、現象の分別が時間的にも空間的にも不明瞭になります。つまり、システムのフィードバックループ(非線形性)が増大することで、観測者と観測対象を含めた因果関係や森羅万象の境界が流動的で複多様雑になるのです。

科学が客観的に証明できる理論や知識、言語によってなりたつのに対し、呪術や宗教、神秘主義といったオカルト的な知識は、観測対象である世界と一体の内部観測者の視点に立ち、主観と客観の対立を超えた直接的な体験による内外世界の変容を通じて大成されます。オカルト的な思考形態の本質とは、個人の意識下で意図的に操作や制御できるものではなく、認識する主体と認識される客体の対立を越えたシステム全体、つまり世界そのものから創発される直観や創造なのです。世界そのものの表現や行為のなかにあって、自他の境界を取り払った状態で世界に耳を傾けようとする行為です。それは、この世界と一体となり、世界そのものに自身のことを語らせようとする行為であると同時に、自分のなかにあるより深いレベルの自己を探求する行為でもあります。古来より、人類はこのようにして得られる全体性に基づく知識を、自然、叡智、精霊、真我、神などと呼んだのです。 

まとめ

近代科学の代表的な特徴は以下の点といえる。

a. 等質性(普遍性、客観性、再現性)――個別の環境に左右されず、同一の事象や結果が確認できる。
a. 一義性(定量性、理論性、数理性)――事象を法則的、定式的、統一的に説明できる。

しかし、これらの二つの特徴がなりたつためには、以下の前提条件が必要であり、自然界の全体性を理解することができない。

b. 二元性(観測系と対象系の分離、対象系外部かの観測、外部観測、主客二元論)――観測系と対象系を明確に分け、また、主観を排除して観察ができること。
b. 部分性(局所的、還元的)――時空全体のあらゆるレベルの事象を、それぞれ独立した局所的な系として区別し、分析できること。

呪術や宗教の手法はこれを回避するために以下の特徴と前提条件をもつ。

a. 異質性(特殊性、相互作用性、一回性)――事象は非可逆的かつ個別性をもち、同じ条件下での再現ができない。
a. 多義性(定性的、複雑性、象徴性)――一事象が膨大な諸因子や動的な因果関係を含むために一義的、理論的な説明ができず、複雑多様な意味や性質を含む。その知識は、記号や図形、物語、動的な法則によって多義的・定性的・象徴的に説明される。
b. 一元性(観測系と対象系の統合、対象系内部からの観測、内部観測、主客一元論)――観測系と対象系が分離できず、観測者がそれを構成する一部として関わること。
b. 全体性(統一的、大域的)――すべての事象は独立しておらず、全体として一体の系であること。

科学と呪術・宗教は一般的に相容れない対立的なものと見なされていますが、二つの方法論として見ると、むしろ相補的な関係を成しています。呪術・宗教は、観測対象を含めた系全体と一体の内部から観察します。近代科学とは、主体・主観を排した部分どうしの定量的な関係を本質的なものと考える態度です。一方、宗教があつかうのは複雑性のシステムであり、主体・主観を含めた全体の定性的な単一不可分性を本質的なものと考える態度といえます。