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【考察12】社会に対して神話や宗教が果たせる役割を考えてみた

オカルトは現実社会で役立つのか考えてみました😅😅

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人間の共同体とは、たんなる動物の群れや近隣の集まりとは異なります。その地域がもつ神話や宗教、伝統に根ざした、独自の道徳や価値観、慣習、慣例を共有することで形づくられるのです。従来的な助け合いやお互いさまといった域内の良心は、住民がその土地に根ざした伝統的な価値規範や慣習慣行を共有することで共同体意識をもつことでなりたつものです。

このような共通する価値規範によって支えられた共同体の希薄化とは、関係を築く前からある程度存在していた他人に対する信用や期待が損なわれることを意味します。このため、個々人が相互不信状態で孤立し、狭い価値観が乱立や対立する構造へと陥りやすい社会構造が生まれやすくなってしまいます。

経済学者フリードリヒ・ハイエクによれば、経済や社会は、歴史的に形成された慣習的なルールのもとで他人に共感できる能力をもつ人々が活動することで、秩序や自由が保たれるといいます。また、共同体によってなりたつ社会構造のもとでは、各個人は自分の生活領域のうちにあって、自身の欲望のおよびうる限界点をそれとなく感じとり、それ以上の欲望をいだかないものとして存在するのです。

しかし、共同体が失われ、自由になった個人はその欲求が近代的自我を起源とする利己的なものとなりやすいのです。ましてや個人の利益が全体の利益に直結していた高度成長期が終わり、また、産業構造の変化によって能力主義による選別が激しくなった先進国家は、他人の利益は自分の利益にならないという考えばかりか、自分の不利益につながるというルサンチマン的な思考にいたりやすい状況ともいえます。

究極的にいえば、個人が自己の損得のみを考えるようになり、社会が分断や対立、他者への不信や不満の構造に支配されかねない危険性があるといえます。共同体から自由になった個人は、行動原理が自己利益の追求のみに染まったり、自分にとって都合の良い(理解できる)話だけを受け入れてしまう盲目的な人間を増やしたり、他者や社会から認められていないという自己価値、有用感の喪失に陥りやすいという欠点もあるでしょう。

全体主義に陥ったナチズムなどの社会情勢を分析した政治哲学者ハンナ・アーレントの言葉でいえば、それは「大衆のアトム化」といえます。共同の世界を失いばらばらになったアトム化した大衆は、あらかじめ信じる価値や世界観をもたず、自分の利益のみにしか関心を示さないのです。

アーレントによれば、人間には二つの「誕生」があります。一つ目は肉体的な誕生で、二つ目は社会における誕生です。一般的に「誕生」とは肉体的なものを指しますが、アーレントはそれだけでは「人間」とは言いがたいと述べています。

つまり、単に母胎から生まれるだけでなく、社会における他者との交わりを通して「生きている」という実感を得ることができるというのです。もしもこの「他者」との交わりを失うような方向に社会が向かえば、わたしたちは生の実感を得にくくなり、あるいは動物的な欲求の充足に甘んじるほかなくなるでしょう。

アーレントが危惧していたのは、まさにこの言論活動の領域が社会から失われることでした。彼女は、共同体と呼ばれるものが労働をするためだけに個人が集まる目的になりつつあること、また人々をつなぐ宗教的な媒介が崩壊しつつある兆候を見ていたのです。

そのような共同体の裏付けを失った極端な社会では、人々は無能/有能、底辺/金持、モテ/非モテなど目に見えてわかりやすい項目で、両極的に評価されるようになります。そこで余裕のなくなった人は、現実と隔絶した共同体(思想)、あるいはペシミズム・ニヒリズム・ルサンチマンに依存して自己を保とうとします。

このため、社会的に恵まれていないと自覚し鬱屈した存在を、共同体空洞化を背景に噴き上がりがちな付和雷同層として増殖させてしまうのです。近年の現代先進国家で噴出している不満や対立、分断の構造、自暴自棄の犯罪とは、賃金や格差の問題だけではなく、みずからの存在やがんばりが他者から認められないという、共同体の一員としての尊厳の問題でもあるのかもしれません。