ケア疲れ
メンタル不調の人や働き方に配慮を求める人が集まる職場というものがある。能力主義の組織ではエリートと非エリートに分けた上に、事情があってフルに働けない人を格下の部署に集めるのだった。
そういう職場ではケアが必要だ。できない人弱い人をなるべく傷つけずに、その人なりに働いてもらう。それが大事だと思ってきた。
けれど、成果を求められる職場でのケアというのは難しい。上からさまざまな圧がかかる中で、傷つけたくなくても傷つけてしまうことが多々あった。
メンタル不調の人に働いてもらう時。仕事に自信をなくしていた人があからさまに不満な態度を示す時。子育てで時短勤務しかできない人に負荷をかけることになってしまう時。会社に来るのが怖いと訴えて涙する人がいる時。弱っていることを察知していたのに、その人が自死してしまった時。
ケアがうまくいかないことばかりだった。ケアが届かないことの自責に加え、若手にまで責められる。上からは冷たくあしらわれる。無力感と孤独感に苛まれる。自分の元気が吸い取られる。味方が見つけられない。
東畑開人さんの「雨の日の心理学」を読むと、そういうケアする側の苦しさが書いてあり、これは私のことだと思った。私はだから心理学を求めていたんだと思い至る。ケアする自分の苦しさ、これは何なのだろうと答えを探していた。
ケアを続けるにはケアする側もケアされることが必要なのだ、と東畑さんは書く。そうなのだろうな。自分のこの虚しさは疲れているからなのだろう。組織の便利なケア役からは身を引こう。この場を離れて少し自分の心を回復したいと思うのだ。
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