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戦火のアンジェリーク(13) 3.Wales ~ the UK

創作長編『戦火のアンジェリーク』第3幕部分(★はR15描写あり)
※フィクションです。実在の人物、土地、出来事とは関係ありません。

概要

3.Wales ~ the UK

★始まりと予兆


 同日の夕刻。ジェラルドは、グレアムが常連客として通っているという、ジャズバーに来ていた。昼間はカフェとして営業しているが、夕刻から深夜にかけてはバーになる。雇われのブラスバンドによる演奏が流れる中で、飲酒や軽食を楽しむ店だ。そのピアノ演者担当の面接を受ける事になったのだ。
 この数日間、グレアムと相談した結果、教養はあっても、ここで生かせる仕事は限られているとわかった。不況の今、求人も多くは無い。ジェラルドの特技がピアノと知った彼の計らいで、ここを薦められたのだった。

「……グレアムさんから聞いた時は、貴族出身の坊っちゃんがなんでまた、って思ったよ。ただ、ウチも不況で客足が遠退いててね。大した賃金は出せないけど、本当にいいのかい?」
「勿論です。構いません。有難いです」

 淡々と、だが、しっかりとした口調でジェラルドは決意を述べる。暫くの間は、ピアノを触ることすら出来ないかもしれない、と覚悟していた位だ。夜間の仕事は多少きついだろうが、彼にとっては願っても無いチャンスだった。何としてでも、この仕事を得たい。

「私は、もうあの家の家督継承権はありません。肩書きは、ただの家名でしかない。ここでは、『ジェイド』と呼んで下さい。彼女と共に生きるため、恩人の助けを得て、ここまで逃げて来たのです。どうか宜しくお願いします」

 ジェラルドは、自分よりもかなり年長の店主に向かって、丁寧に頭を下げた。素朴なこの町にはあまりいないタイプの、どこか洒落た雰囲気の漂う、気さくな感じの男だ。

「身分違いの恋、駆け落ちってやつかい? やるねぇ」

 ヒュウッ、と冷やかすような口笛が、軽快に鳴る。

「だけど、あんたツラも良いが、身なりというか品があるねぇ。何もウチなんかで働かなくても…… ここじゃ、モーツァルトやショパンは扱ってないよ?」

 からかうような口振りの中に、どこか卑屈めいたニュアンスを混じる店主の言葉に、ジェラルドは、内心少し不遜な思いをいだいた。突然降ってやって来た、素性が危うくはっきりしない新参者の自分。やはり敬遠されているのだろう……


 黙ったまま、店内の小ぶりな木製のピアノの前に立ち、軽快なメロディを鳴らした。そして、静かな前奏から始まり、美しい旋律を奏でる。普遍的であり、同時にジェラルドが愛好する、ショパンの『ノクターン』だ。
 しかし、どこか印象が違う。鍵盤を叩く彼の長い指が、軽やかに踊るように、舞う。叙情的でノスタルジックなこの美しい名曲を、ジェラルドは、華麗なジャズアレンジに変化させ、盛大に弾き流したのだ。
 唖然としている店主に、軽く息を荒げながら、なるべく明るい口調で答えた。

「……ショパンもですが、ジャズも好んでるんです」
「やるじゃねぇか。兄ちゃん。いや、ジェイドさんか。これからよろしく。今晩は早めに閉めるから、歓迎会にしようぜ」

 上機嫌になった彼は、カウンターの奥からグラスを二つ手にし、ワインを勧め始めた。


「……悪い……遅くなった……」

 深夜。日付が変わる間際の刻。ふらついた足取りで、グレアム宅に帰って来たジェラルドを出迎え、支えるように部屋に招いたアンジュは驚き、心配した。仕事を探しに行っているとグレアムから聞いて、起きて待っていたのだ。

「お酒の臭い……大丈夫ですか?」
「白ワインと、ウイスキーを……」
「どうして、こんなに……?」
「……仕事が、決まった。店長が歓迎会だと言った。気の良い人だが、かなりのワイン好きで……酒は弱くはないが、呑み過ぎた……」

 頭痛がするのか額を押さえ、ぼそぼそ、と呟くように説明していたが、珍しく明るい口振りだった。仕事が決まったからなのだろうか。彼の高揚が伝わり、アンジュの心も弾む。

「えっ……おめでとうございます! 何の仕事ですか?」
「ジャズバーのピアノ演者」

 ピアノの仕事だと知り、更に嬉しくなる。自分のせいで、彼から大切なものを奪ってしまった、と密かに気にしていたからだ。

「……何だ?」
「いえ、嬉しくて…… 本当に、良かった……」

 頬を緩ませ、安心したように喜ぶ彼女に、ジェラルドも安堵し、更に上機嫌になった。口元がほころび、久しぶりに晴れやかな表情を見せる。
 そんな彼に見惚れながら、アンジュは提案した。自分も何かしたかったのだ。

「今日、奥様と町のご婦人方と一緒に、市場へ行きました。食材を少し買って来たので、明日、胃に優しそうなスープを、作ります……」
「……助かる。頼む」

 そう嬉しそうに呟きながら、フランネル素材の薄ピンクのネグリジェ姿でいる彼女を抱きしめた。肩に顔を埋め、頬を擦り付ける。

「……やっぱり落ち着く……日向ひなたの匂いがする」
「ひ、日向、ですか……?」

 確かに、昼間は皆で市場へ買い物に出たが、シャワーは浴び、身体も拭いた直後だ。意図がわからず、アンジュは困惑する。

「ああ。陽をたっぷり浴びた、野花のような香り、がする……」
「……ジェイド、さん?」
「前に触れた時、蜂蜜のような甘酸っぱい香りがした…… ああ、髪もハニーブロンドだな……」

 独り言のようにぼんやりと呟きながら、ジェラルドは彼女の髪をまとめたリボンをほどき、はらり、とこぼれ落ちた髪を一房ひとふさ、指に取り、かぷり、とくわえた。

「……!?」

 酔っている彼に負けない位、アンジュは真っ赤になった。借りている部屋に二人きりでいるからか、酒が入ったからか……ジェラルドはいつになく大胆で、素直に喋っている。
 『もっと聞いていたい』とも思ったが、先に恥ずかしさで参ってしまいそうだった。

「そ、んな……ジェイドさんこそ……木の、香りがします」
「……木? ああ、付けてる香水トワレがウッド系だから……」
「それ、だけじゃなくて……草原のような香りがするんです。干し草みたいな……何だか懐かしくて好き、なんです」
「……誘ってるのか? シスリー?」

 にや、と口角を少し上げ、悪戯を思いついた子供のような笑みを、ジェラルドは浮かべた。

「えっ……?」
「酔っ払った男……そうだ、俺以外には……絶対に、そんな口説き文句を言うな。何を、されるか……わからない……」
「口説、き、なんかじゃ……」

 真っ赤になって狼狽うろたえるアンジュをとがめながらも、彼は嬉しそうに頬を緩ませ、彼女の耳たぶから柔らかな頬にかけて、唇を押し当ててきた。
 彼の唇がたどった部分に、湿度を帯びた熱い空気と甘がゆい刺激が走る。思わぬ展開に狼狽うろたえているアンジュを他所よそに、彼女が羽織っていた厚手のガウンの腰ひもを解き、ジェラルドはずり落とした。
 ネグリジェの胸元の紐とボタンを緩めて引き下げ、あらわになった首筋から鎖骨付近の素肌の感触を味わうように、唇を這わせ始める。

「……可愛い。本当に……かわいい……」
「あ、や……ダメです。ここは……」

 色めいたリップ音が胸元で鳴る度、喜びと困惑の入り交じる心が、更にぎゅっ、と揺さぶられアンジュは慌てた。今いるのは、世話になっている恩人の家の部屋だ。こんな事をして、壁越しに自分の恥ずかしい声が聞こえないか、心配で仕方ない。
 しかし、その所為を行っている当人は、そんな事は承知だ、と言わんばかりにあっさりとしている。

「わかってる。今夜は、しない……が……」
「そんな声で言われてもな……」

 悩まし気な掠れ声で呟き、柔らかな胸までをネグリジェ越しに優しく撫で上げてきた彼は、今の状況と彼女の反応を楽しんでいるようだった。
 えんな刺激と、意識を溶かされていく甘過ぎる空気にてられる。このままでは流されてしまう……と困ったアンジュは、必死に口元を抑えながら提示した。

「……もう、休み、ましょう…… 手伝います、から」
「君も一緒なら……さすがに疲れた。眠ろう……」

 そう言って頬や額に、ゆったりとした優しいキスをし続けてくる彼の口元から、アルコール独特のつん、とした臭いに混じり、葡萄ぶどうの甘酸っぱい味が伝い流れてくる。この臭いは苦手だったけど、今は嫌ではない。むしろ……素直に酔いしれていくような気がする。


 自分達の未来がずっと不安だったアンジュには、こんな他愛ない戯れが『ずっと一緒にいて良い』という、彼や神からの赦しを与えられているようで、泣きたい位に満ちていた。
 それに……ずっと感じていたが、彼と唇を重ね合わせるという行為も、自分の身体に指や掌で触れられるのも、少しずつ緊張が解けて、思った以上に心地くなってきていた。
 そればかりか、続けているうちに安心感と共に、不可思議な甘がゆい焦燥に駆られてしまう時がある。そんな自身が妙に恥ずかしく、彼にはとても言えずにいたのだ。甘い高鳴りと苦しさと共に、をもっと……求めてしまう……
 そんな複雑な内情を秘めつつ、ほっ……と少し安心した素振りのアンジュに、不満そうな声が返ってきた。

「……そんなに……安心しなくても、いいだろ……」

 少し拗ねたように呟き、ジェラルドは眉をひそめる。今日の彼は、甘えん坊なだだっ子のようだ。この人の、こんな姿を見られるなんて……
 泣きたいくらい幸せで、甘やかな時間。なのに、何故かやっぱり……怖い。明日には、全て消えてしまうんじゃないかと怯えてしまう。
 幸せであればある程、怖くなってしまう。自分や誰かの言動や出来事がきっかけで、呆気なく壊れてしまうのが恐ろしくて堪らない。
 こんな日々が永遠に続くのなら、これ以上何もいらない…… そんな風にさえ、切に願うアンジュだった。


 一ヶ月程の時が過ぎた。春の到来が遅い英国にも、ようやく、日中に柔らかな陽の光が射し込み、カーディフ付近のこの町にも小春日和が増える。
 新参の若い二人は、新しい生活に慣れる為に奮闘する毎日だった。ジェラルドは例のジャズバーで働き始め、貯蓄を始めた。男女二人で暮らすには、今の彼らに財産はほとんど無い。
 その間、彼にとっては、生まれて初めて触れる、身分の異なる人々の生活仕様、文化に驚く毎日だった。庶民的……素朴で、飾り気のない質素な暮らし。娯楽らしい娯楽や目新しい刺激は無く、単調な労働と衣食住の営みが、惰性的に過ぎていく。
 『元坊っちゃんには退屈だろ?』と、酔った客にからかわれることもあった。


「君も、今までこんな風に……暮らしてきたのか?」

 昼夜問わず神経を磨り減らす、ビジネスや男女の駆け引きの渦中に無駄に揉まれ、更に冷たい視線を浴びてきた彼にとって、この生活はとても新鮮で、不可思議な事ばかりだった。
 理解し難い事もあるが、思ったより居心地は悪くない、と感じる自分に驚く。ピアノに関われているという、恩恵はあるだろうが……
 そんな彼の心理がアンジュには解るようで、今一つ読めない。

「やり方は、似てるかもしれないです、けど…… 子供の頃や楽団にいた時とは、私も違います。今が一番穏やかで……温かいです」

 だから、精一杯の彼への感謝と好意を込め、そう告げた。


 目まぐるしい日々が過ぎていったが、イギリスとドイツ、イタリアが戦争を始めたなど、何かの間違いだったのではないかと錯覚する位、凡庸で穏やかだった。
 だが、町中の空気は、やはり不安定でどこか落ち着かない。水面下では何かが動いているらしい、油断はできない、と住人は話している。海の向こうの国々は、相変わらず容赦ない攻撃や、残虐な侵略行為に遭っているというのに、敵は何を企んでいるのだろう……と不気味な思いを皆、いだいていた。
 そんな時、英国には現在『良心的兵役拒否権』というものがあるのを、ジェラルドは客同士の会話と、グレアムからの情報で知った。申請して条件が合い、通れば兵隊として戦地へ行かずに済む、というものらしい。
 ただその為には、この町の住人として申請しなければならない。一刻も早く、二人で生活を安定させたい。こちらでの呼び名……偽名は使えないが、ロンドンから脱出して一ヶ月以上経つ今でも、何も起こらない。だいぶほとぼりが冷めたのだろう、と考えていた。
 その事を彼から聞いたアンジュは、以前、ロンドンで世話になったクリスが、そんな話をしていたのを思い出し、伝えた。もしかしたら、ジェラルドは戦地に行かなくて済むかもしれない、と、少し安堵する。
 ようやく明るい未来が、手の届きそうなところまで来た。そんな淡い希望が見えた、春の始まり――


 そんなある朝。グレアム宅に届いた、朝刊を目にしたアンジュは、思わず持っていた洗濯かごを落とした。血の気が引き、痛い程に心臓が縮み上がる。

『我が国、英国海軍とフランス海軍、ドイツ軍と激突!! ノルウェー海域にて、戦闘開始!!』

 かじり付くように手にした新聞には、目にしたくなかった文章が、見出し一面を飾っていた。

崩壊


 何かの歴史小説の一行を読んだ後の、現実との境が曖昧な感覚。そんな錯覚がアンジュの脳裏を占めた。しかし、これは今生きている世で起きた事で、確かに目にした事実上の出来事……

 ――とうとう、始まって……しまったの……?

 フランス軍という単語を見て、フィリップの面影が脳裏に浮かんだ。彼を思い出し、安否を気にするのは久しぶりだった事に気づく。それだけ、自身も様々な出来事に翻弄されていたからか、ジェラルドと過ごす時間が幸せで、穏やかで忘れていたのか……
 いや、フィリップの存在と共に、戦争が起こっているという、目を背けたい現実から無意識に逃避していたのかもしれない。都市部であるからか、ロンドンにいた頃は、空襲監視員によるテロ対策や避難訓練があったが、こちらではそのような試みは、あまりなかった。空爆が起こった時の注意点や、避難先を指導された程度だったらしい。
 だからか、戦時中という現状をリアルに感じる時が、最近のアンジュにはなかったのだ。以前の彼からの手紙には、志願したのは陸軍だとあった。今回は海軍同士の戦いだが、陸の戦闘が始まるのも、時間の問題だろう……


 そう考えた瞬間、目の前が真っ暗に落ちた。軽い眩暈に、視界がぐらつく。頭の中がフリーズしたようだ。そんな思考をなだめるように、あの太陽のように明るい笑顔が、鮮やかに甦る。

 ――フィリップ……どうか、無事に帰って来て…… まだ、を果たせてないわ……

 彼に命の危機が迫っている事、まともに歌う事すらできない自身の状況。改めて、そんな現実に愕然とした心境に追い撃ちをかけたのは、海上……大好きな海でが始まった事だった。
 ロンドンやカーディフより、更にずっと北にある、極寒のノルウェー海域がどんなものか、どんな景色なのか、南半球の温暖な海しか知らないアンジュには、まるで想像がつかない。
 しかし、そこに砲撃が起こり、爆弾の雨が降り、兵士の遺体が浮き沈み、鮮血で染まるのは何となく想像できた。海底にいる生物が壊滅されることも……

 ――人間の争いなのに、海を巻き込むの……?

 怒りに近いやるせなさ、憤りが、胸奥から沸き、溢れ出す。重さにたまりかね、その場に崩れ落ち、座り込んだ。


「シスリーさん!? 大丈夫!?」

 玄関から駆け込んだグレアム夫人が、アンジュの傍に寄り添う。共に洗濯物を干す為、庭で待っていたが、なかなか来ないのを心配して来てくれたのだ。彼女が震える手で持っている朝刊を見やり、抑揚の無い声色で、呟いた。

「ついに、始まりましたね……」
「奥様、すみません……私……」
「顔が真っ青ですよ。何か……他に良くない事でも?」

 スコットと同じく、過去に大戦を経験した彼女になら、フィリップのことを話せるかもしれないと、アンジュは切り出した。

「……友達が……フランスの、陸軍に……いるんです。志願したらしくて……」

 弱々しく震える声で、そんな事実を告げた彼女に、少し驚いた素振りを見せた夫人だったが、落ち着いた口調で返した。

「……そうだったんですね」
「どうして、彼が志願してまで兵士になったのかわからないんです。とても優しくて、海や自然が大好きな人だったのに……」

 ロンドンで手紙を受け取ってから、ずっと胸に秘めていた疑問を、夫人に問いかける。今まで、ジェラルドには話せなかったのだ。以前、フィリップの事を話した時の、彼の反応を思うと気まずかった。今の想いを、変に誤解されるのも嫌だった。

「だからこそ、では?」
「え……?」
「その愛する自然のある故郷や、貴女のいる国を守りたかったのではないですか?」
「そんな……私は、そんな事、望んでないです。生きてさえくれたら……」
「前の大戦で、父が出征した時、同じように思いましたよ。命はなんとかとりとめましたが、足を悪くして帰って来ましてね……」

 夫人の当時の体験談が、今では痛い程、心に滲みる。


 『とりあえず、外の空気を吸いに出ましょう』と夫人に促され、アンジュは庭に出た。共に洗濯物を干し始める。見上げた空は、いつもと変わらない。少し曇りがちだが、フィリップの瞳のようなスカイブルーだ。
 こんな風に普通に外に出て、当たり前のように、陽の下で洗い立てのシーツを干せる……そんな安寧の日々は、いつまで続けられるのだろう。

『僕の分まで、夢を忘れないで生きてほしいんだ』
『君の歌で、元気になれた』

 あの時、彼が発した、たった一言のフレーズ…… 数分の出来事が、シャッターを切られたまま、今でもアンジュの心に息づいている。
 彼の為にしたはずのだったが、いつの間にか、彼女がである為の支柱の一つになっていた。あの頃より、より濃く、鮮やかに彩られながら……


 その夜。仕事から帰って来たジェラルドに、ドイツと英仏の海戦が始まった事を、アンジュは話した。ロンドンで初めて出会った頃、彼に言った自分の言葉が、生易しい夢……絵空事のように感じる。

「いつか、貴方が言った通りです。反戦を説きたくて、歌で伝えたかったけど、何もできなかった……」

 親友だったという男の話を聞き、いつになく後ろ向きで、落ち込んだ様子のアンジュが、ジェラルドは少し気になった。昔の自分が発した言葉が、あの時よりも痛切に刺さる。
 酷な事実ではあるが、、それを口にするのは、一層、辛く感じたのだ。

「……最後にスコットさんに会った時、『ポピーの涙』の譜面と歌詞を見せた。とても感動し……涙していた…… 少なくとも君は、彼を癒した。それは間違いない」

 ジェラルド自身、このような優しい言葉を口にする事は少ない。励ますように語る彼の気持ち、自分の知らないうちに計らってくれていた事が、アンジュは嬉しかった。しかし、どこか薄暗い空虚感を拭えないでいる。

「……本当の意味では、何もわかっていなかったように思います」
「え?」
「大切な人を失って、悲しまれている方の気持ちは、解るようで……わからなかった」

 悲しげに自責するような口調で、アンジュは続けた。

「大好きな自然が壊されて、何も罪の無い人が、酷い目に遭うのは想像出来ました。だから、戦争なんて始まって欲しくなかった…… でも、ずっと一人だったから…… 何かの舞台の一幕を傍観してるだけみたいで……」

 彼女の影の部分を垣間見たようで、ジェラルドはごくり、と息を呑む。自分にも思い当たる、理解できる感情だった。
 心の一番真ん中の部分が、ぽっかりと空洞化しているような感覚。誰かの経験を見聞きしても、どこかしっくりとこない。自身とは無縁過ぎて、心が動かないのだ。

「……今は、すごく……怖いです。貴方や彼がいなくなる事が、怖くて、怖くて堪らない…… けど、そんな人ができたことが、どこか嬉しくもあって……私……おかしいです……」
「シスリー」

 涙声になった彼女を、自身が名付けた名でジェラルドは呼び、そっ……と抱き寄せた。彼女が言いたいことは、よく解る。解りすぎて彼も哀しく、また……のだ。


 月日が過ぎた、1940年5月。アンジュも新しい環境に慣れ始め、金が貯まってきた事もあり、来月に入ったら、彼女も働き口を探し、グレアム宅近くのアパートに引っ越そうかと、ジェラルドと相談し始めていた。
 そんなある日、アンジュはグレアムから、ある場所を勧められた。カーディフから更に北東に位置するこの町は、イングランド周辺に栄える、湖水地方に近い風貌があった。彼によると、町から少し離れた場所に、そんな風合いの小さな湖畔があるらしい。
 『友人が出征していてひどく気落ちしている』と夫人から聞いたグレアムは、何か彼女の気晴らしになるような方法はないかと考えてくれたのだ。
 慣れないこの町で、唯一、心の拠り所であるジェラルドとは生活がすれ違い気味で、共に過ごせる時間もない状況が長く続いている。彼の演奏は、客からの評判も良いらしく、新しい仕事内容や演目を必死に覚える為、昼夜問わず慌ただしい日々を送っていた。
 それでも顔を合わせたり床につく時は、どんなに疲れていても、必ずハグやキスを丁寧にしてくれる。そんな彼を案じ、またジェラルドのピアノが好きで誇らしくもあったので、とても弱音は吐けなかった。

「あんたが、花や自然が好きな田舎育ちだったって、ジェイドから聞いてね。大した場所じゃないが、静かでいい所さ。俺も、夏に釣りに行く場所だ」

 初夏になったら、ラベンダーなどの花も咲く、美しい光景が見られるという。そんな彼らの温かい心遣いがありがたく、早速、一人でその場所に行った。


 教えられたその湖畔は、白樺しらかばの高い樹木に囲まれ、人気ひとけは無く、静寂に満ちていた。辺りは薄曇りでどこか寂しげだが、枝から若葉色の新芽が芽吹き始めている。
 見上げた木々の隙間からこぼれてくる、柔らかな陽光が、アンジュを淡く照らしていた。深呼吸すると、涼やかで新鮮な空気と共に、草木の良い香りが胸いっぱいに沁みていく。初めて来たのに、何故かひどく懐かしく、安心できる場所……

 ――ジェイドさんに包まれてるみたい……
 ――ここでなら、また歌えるかもしれない。子供の頃、口ずさんでたみたいに……

 久しぶりに、心が軽くなった気がした。今夜、彼が帰って来たら話してみようか…… 笑ってくれるだろうか。

 ――いつか、一緒に来たい

 ささやかだが、新しく生まれた希望。だけど、今は束の間の夢……シャボンのようなお伽噺に感じる…… そんなシニカルな心境になっていた。


 そんな彼女の予感が当たったのか、数日後に届いた新聞は、『我が国の同盟国、フランス陸軍、ドイツ陸軍と戦闘開始!!』という、彼女が最も見たくなかった、最悪のフレーズで埋まっていた。
 目にした瞬間、堪らない衝動が襲いかかり、アンジュは、反射的に駆け出した。無意識に場所に向かって、全力で走る。湖の側に着くなり力が抜け、膝をつき、崩れ落ちた。
 という時は、どろどろした様々な感情がもっと吹き出すと思っていた。が、何も出てこない。今の現状を受け入れられない。信じたくない、何かの間違いであって欲しいという、自己防衛的な逃避だろうか。
 フィリップが配属された部隊はどこか、どの前線に配置されたのは知らない。だが、志願したという以上、少なくとも安全な場所ではないだろう……

「……ラ……ラ、ラ……」

 ようやく、唇から掠れ声で自然にこぼれたのは、メロディだった。ロンドンで初めて作った、反戦と鎮魂の想いを込めた、朱く可憐な花の歌……
 歌詞は出なかった。戦場で散り逝く情景なんてリアル過ぎて、今は歌いたくない。しかし、自身を慰める術が、それしか無いアンジュは、すがるような思いで、暫くの間、思い出の楽曲を口ずさんでいた。

 春を迎えたばかりの草原には、黄水仙などの花が、ちらほら咲き始めている。眼前に広がる清涼な湖には、解け残った薄氷が、きらきら、と反射して瞬き、儚くも美しい。大きく割れ目の入った、頼りなげなガラスのような地盤だ。もっと温かくなれば、いずれ溶けて無くなるだろう。
 そんな道でも、先に見えない暗闇でも、ジェラルドと二人なら歩いて行ける。という時は……その時もだと考えていた。が、片方だけ失うなんて可能性は、考えていなかった。
 ……いや、考えたくなかったのだ。想定しないで前に進む事だけが、危うくも、確かな唯一の拠り所だったから。


 六月に入り、アンジュとジェラルドは、グレアム夫妻にこれまでの礼を深々と述べ、ようやく、彼らの自宅近くにある二人住まいのアパートに引っ越した。不安も数多くあるが、ようやく二人の新しい生活が始められるという、淡い希望が灯る。
 そんな矢先……フランスがドイツに敗北したという重大ニュースが、霹靂へきれきの如く、国内を駆け巡った。仏軍は壊滅状態で、事実上、完全降伏という事らしい。容赦ない侵略行為がフランスでも始まり、民間人も危機に曝されるという事になる。挙げ句、ドイツの同盟であるイタリアが、この機に本格的に参戦した。
 つまり、我が国イギリスは、欧州から孤立状態に陥ったという危機的な状況――

 新居となる部屋で一人、荷ほどきと掃除をしていたアンジュは、ラジオから流れてくる、そんな無情な知らせを聞いた。一瞬、耳を疑ったが、次第に意識が遠退き、よろめいた。

 ――フィリップ……? 嘘でしょう?

 連絡先がわからない今、彼の安否を知る手段は無い。もし生きていたとしても、これから始まる侵略行為によって、彼を含む国民も国土もどうなるかわからない。フランスという国全てが、まるごと奪われ、潰されるカウントが……始まったのだ。


↓次話


#創作大賞2023

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