戦火のアンジェリーク(2) 1.Australia
1.Australia
産声
突然の出会いから、早一ヶ月が経った。アンジュは毎日のように、フィリップ、エレンの二人と一緒に過ごしていた。会えるのは、休憩の僅かな時間の間だけだったが、今までずっと一人で過ごしてきた彼女にとっては、何よりも新鮮で、少し怖くて、貴重な時間だった。
二人のサーフィンを見たり、アンジュの歌を披露したり、お弁当を持って海辺で一緒に食べながら、少しずつ、色んな話をする。
今までに分かったこと――フィリップはアンジュと同い年。フランスでワイナリーを営む家の一人息子で、今は父親の仕事の都合で、こちらに来ているらしい。エレンはフィリップの幼なじみで、彼と同い年。彼女の父は実業家で、母親が数年前に病死したため、親友である彼の両親に、娘を預けているとのことだった。
「エレンとは、兄妹みたいに育ったんだ」
フィリップは、そう言って嬉しそうに笑っていた。
聞くもの全てが、アンジュにとって珍しく、新鮮なものばかりだ。フランスという北の海の彼方にある、見知らぬ国の文化や歴史、周辺の地理、生活の話…… 聞いても聞いても、全然飽きない。
「いつか、僕らの国に遊びにおいでよ」
故郷の話をする度に、控えめながらも憂いがかかった瞳を輝かせ、白い頬を紅潮させている彼女に、フィリップは笑って言った。
誰かと楽しく過ごす、会話をする、食事をする。それだけで、目の前の世界がまるで違って見えてくる。日に日に覚える未知の衝撃に、自分は活きているのだと、アンジュは初めて知った気がした。
とある快晴の日。今日も、二人と会う約束をしていた。
「明日は、すごくいい波が来るから最高のサーフィンを見せてあげる」
そう言って、フィリップがアンジュとエレンを誘ってくれたのだ。二人に会えると思うと、いつもの仕事にもやる気が出る。台所の小さな窓からも強い陽射しが差し込み、ギラギラ、と室内を照りつけていた。絶好のサーフィン日和だ。
小さく鼻歌を歌いながら、浮き立つ思いで昼食の支度をしていると、院長が声をかけてきた。
「……お前、今日も出かけるの?」
振り向くと、眉を潜めた険しい表情の院長が、こっちを見ていた。
「いけませんか……?」
珍しく、不服そうに静かに返答するアンジュ。唯一の自由時間まで拘束されては堪らないと思った。そんな彼女に追い討ちをかけるように、叔母でもある院長は続ける。
「御近所でちょっとした噂になっててね。ウチの子が、良家のご子息、ご令嬢と最近親しくしてるって」
――やっぱり……
アンジュは俯き、ぐっ、と唇を結んだ。小さな田舎町だ。噂が広まるのは早い。
――でも、悪い事はしてないのに……
モヤモヤした気持ちの悪い渦を、胸の奥に感じたが、口には出さなかった。下手に反論して、外出を禁止されるのは嫌だと思ったのだ。
「まあ……仕事を怠けないならいいけどね。くれぐれも、迷惑だけはかけないでちょうだい。厄介事は御免だから」
黙ったままのアンジュに苛立ったのか、とどめの一言を、刺す。
「情けでここに置いてやってるのを、忘れないで」
院長はそう言って一瞥し、台所を出て行った。
――ひどい。
アンジュの心に、小さな爆ぜりが生まれた。未だに、たまに来る引き取り話すら断って、都合良く使ってるのに。でも、何も言い返せない。彼女の言ったこと自体は当たっている、と思うからだ。
そんな自分がまた惨めで悲しく思ったが、柱時計の秒針の音に気づき、我に返る。
「急がないと」
そう呟き、勢いよく、鍋のスープをかき混ぜた。
昼過ぎ。待ちに待った休憩時間になった。待ちかねたように、アンジュは、駆け足で海辺に向かった。さっきまでの暗い念を振り切るかのように、いつもの道、緑鮮やかな葡萄畑を、野ウサギのように駆け抜けて行く。
――早く、早く。二人が、フィリップが、待ってくれている……
――いつからだろう。こんなに会いたくなってしまったのは…… どうして、会いたくて仕方ないんだろう……
――一分でも一秒でも長く、一緒にいたい…… 話がしたい…… 困っていたら、助けてあげたい……
彼女にとって、初めて感じる類いの感情だった。誰かのことを特別に、大切に感じる、満たされたような、熱い高揚感。
この気持ちは、一体、何だろう…… これが、友達に対する感情なのだろうか。普段、あまり動かさない表情筋が、ぎこちなく緩む。
――そうか。これが、友情なのね。何て気持ちの良いものなんだろう……
海辺が見えてきた。既に二人は来ていて、フィリップは、自分に向かって手を振っている。そんな彼に手を振り返して、アンジュは、拙い笑顔で駆け出して行った。
「もう、何やってるのよ……」
砂浜に尻餅をついているアンジュを見下ろしながら、エレンが呆れたように言う。
「あっちに水場があるから、砂を落とした方がいいよ。エレン、手伝ってあげてくれないか?」
「いいわ。まかせて」
そう愛想良く返事をした後、彼に聞かれないよう面倒臭そうに小さくため息をつき、エレンは岩陰にある水道に彼女を連れて行った。
そう、二人を見つけ、急いで駆け出そうとした瞬間、砂に足を取られて転んでしまったのだ。慌てて二人は駆け寄ったが、頭から砂を被り、砂かけモンスターみたいになったアンジュに吹き出し、大笑いした。ひとしきり笑った後、先程の流れになったのである。
当人は、恥ずかしさと自己嫌悪で、その間、何も言えずにいた。
――どうして、私ってこうなんだろう。昔からそう。何でも上手くやれなくて、鈍臭い……
自分が嫌になっていた。大好きな二人の前で、恥をかいて、迷惑をかけて……
――怒ってるだろうな。
無言のまま、さっきから自分の服を脱がし、体や髪に水をかけて、砂を落とす作業をしてくれているエレンにそっ、と目線をやる。
「何?」
形の良いアーチ状の眉を少し歪め、怪訝そうに彼女は問いかけた。
「ううん。何でもない……」
考えてみたら、エレンと二人きりで話すのは初めてかもしれない、とアンジュは思った。彼女はいつもフィリップの傍に寄り添っていて、自分にはあまり話しかけて来ない。嫌われてるのだろうか……と、実は不安だったのだ。
だから今、こうして助けてくれている事が嬉しかった。優しい人かもしれない。これがきっかけで、仲良くなりたい……
「あの、迷惑かけてごめんね…… ありがとう」
淡い希望を抱きながら、お礼と謝罪の言葉を伝える。
「そういうの、やめて」
そんな彼女に反し、冷ややかな声色で、エレンは言い放った。
「え……?」
一瞬、何を言われたのか分からず、茫然とする。
「こういう事は今日が初めてだけど…… 貴女ってぼんやりしてて、色々わかってないわよね」
驚くアンジュに、畳み掛けるように続ける。
「フィリップはね、誰にでもあんな風に優しいの。貴女が孤児だからじゃないし、特別だからでもない。貴女は、沢山の友達の一人にしか過ぎないの。解る? 困らせないで」
「エレン……」
「私も同じ。貴女が特別だからじゃない。だから、甘えて来ないで欲しいの。イライラするのよ。……悪いけど、今日はもう帰って。フィリップには、適当に言っておくから」
そう言い捨てるとバスタオルを投げ渡し、エレンは海辺の方に走って行った。
残されたアンジュは、彼女に言われた言葉が、頭の中でぐるぐると回っていた。『困る『イライラする』――初めて言われる言葉ではなかった。が、仲良くなりたいと思っていた彼女に言われた事が、今までで一番辛く堪えている。
――やっぱり、私が居ると迷惑だったんだ…… 甘え過ぎてたのかな……
我に返り、バスタオルで急いで体を拭き、服を着て、孤児院までの道を歩きながら考える。
『そうかもしれない』と、アンジュは思った。彼女の言う通り、自分はフィリップの優しさに甘えてた。嬉しさ余って、今日はエレンにも……
けど、迷惑かけて平気な訳じゃなかった。優しさを特別だからだとも、当たり前とも思っていない。『ごめん』も、心を込めて言ったつもりだった。それでも伝わらなかったのなら、やはり、自分が悪かったのだろうか……
院に着いて、夕食の支度を始めようとした時、ズキン、とした痛みを両膝に感じた。擦りむいたようで血が滲み出ている。おそらく、転んだ時にできた傷だろう。考え込んでいたからか、今まで気づかないでいた。
――手当て、しないと。
薬箱を取りに行こうとした、その時、炊事場の窓の方から、コツッ、という変な物音がした。振り向くと、何かが投げつけられたような音が、カツッ、コツッ、とまた鳴っている。
――何……?
不審に思って窓を開けると、そこには息を切らした、ウェットスーツ姿のフィリップが立っていた。
「ど……どうしたの!? サーフィンは!? エレンは!?」
アンジュは驚愕した。幻でも見ているのだろうか。どうして、彼がここに……?
すっかり狼狽えている彼女の気持ちを察し、フィリップは口を開いた。
「いや、エレンから、君は気分が悪くなって帰ったって聞いて……心配になったから。それに、ほら、怪我してただろ?」
「あ……」
この人は、今日のサーフィンを中止してまで、わざわざ来てくれたのだ。
――今日は良い波が来る日だから、最高のサーフィンができるって、楽しみにしてたのに…… しかも、こんな所まで来てくれて……
沈んでいた心が、温かい光で満たされたが、先程のエレンの言葉を思い出し、慌てて口を開く。これ以上、手を煩わせてはいけない。
「……ありがとう。でも、大丈夫。大したことないから」
「何言ってるんだよ。結構、出血してたじゃないか。ほら、薬箱持って来た」
そう言って薬箱を持ち上げる彼に、ちゃんと見ていてくれていた事に気づいた瞬間、アンジュは、じわり、と目頭が熱くなるのを感じた。そんな自分の状態に戸惑い、必死に誤魔化す。
「あ、ありがとう。でも、本当に大丈夫だから。いつも、傷の手当ては自分でやってるし」
「自分でやってもいいけど、やってもらった方が楽だろ? ほら早く!!」
この言葉に心を揺さぶられたアンジュは、気づけば、裏の勝手口のドアを開けていた。
「うわ。やっぱり。けっこう酷いじゃないか。座って」
彼女の血塗れの膝を見たフィリップは驚き、手慣れた手つきで膝に薬をつけ、包帯を巻いていく。その間、彼の指が自分の足に触れる度、アンジュは、今まで感じた事のない気持ちでいっぱいになっていた。
嬉しいような、恥ずかしいような、逃げ出したいような、でも、やっぱり嬉しい……そんな気持ち。胸の奥がぎゅっ、と詰まる。
「終わり。もう大丈夫」
そう言って、にかっ、と彼が笑った瞬間、アンジュの中で、大きな音を立てて何かが生まれた。頭が真っ白になり、顔がみるみる熱くなっていくのが判る。
――……今日、夕陽が綺麗で……良かった。
――きっと、今の私の顔、真っ赤……
彼に対して、今まで感じていた気持ちとは少し違う、新しい気持ち。甘くて、切なくて、恥ずかしくて、いたたまれなくて、苦しい……想い。
――すき……好き……大好き……
つい、昨日まで知らなかった、初めての新しい感情。アンジュは自身の変化に驚くと共に、その変化に感謝したい気持ちが溢れていた。胸奥がくすぐったいような、少し苦しいような、不思議な高揚感。
――これが、恋なの……?
お伽噺や本の世界でしか知らなかった感情。それが、現実に、自分の心の中に生まれたのだ。
一方、フィリップも、その真意はわからなかったが、とても柔らかな表情をしている。言葉を発することもなく、ただ静かに見つめていた。
宵に落ちる寸前の夏陽が、黄金色の薄明を差し込み、優しく二人を包んでいた。今までとは違う何かが、声を上げて産まれた瞬間を、祝福するように。
神様との約束
「あの、今日、エレンは……?」
「後から来るって。礼儀作法のレッスンを始めたらしくて。彼女の父親が、花嫁修業だとか言ってさせてるみたいだよ」
あれから、月日は過ぎて、季節は秋を迎えようとしていた。少し冷たいけれど、爽やかな風が心地よい。アンジュとフィリップは、いつもの海辺に来ていた。
「花嫁修業って、私達、まだ十五なのに?」
アンジュは驚いた。ついこの間、フィリップへの恋心を自覚したばかりの彼女にとって、『花嫁修業』なんて別世界の話、物語に出てくるお姫様やお嬢様がする事だと思っていた。
「そうだよ。僕だって、父さんから跡継ぎのことで色々言われてるし」
「そうなんだ……」
ほうっ……と、小さな感嘆のため息を漏らす。
あの夏の日の翌日から、次第に、エレンはアンジュを避けるようになっていた。避けるといっても、フィリップと一緒にいると、必然的に彼女とも会うことになるので、顔を合わせてはいたが、ほとんど無視をしていた。
例えば、まるで彼女がそこにいないかのように話したり、目を合わせようともしなかったのだ。だから、この数ヶ月の間、アンジュにとって辛い日々だった。
フィリップも、そんな幼なじみの変化に薄々気づいていたが、その原因は、彼にはわからなかったので、どうすることもできなかったのである。
しかし、アンジュには思い当たる事があった。あの日、彼が自分を心配して、エレンを置いて、後を追って来てくれたことを怒っているのだと思った。
――多分、彼女も、フィリップが好きなんだわ……
自分も同じ気持ちになったせいか、今では彼女の気持ち……どうしようもない苛立ちが、よく解る。
だからか、せっかく二人きりになれたのに心から喜べずにいた。緊張もあったが、なんとなく罪悪感があって、いつものように彼と話せない。
――フィリップのことは好き。けど、エレンと友達になりたかった……
そんなことを考えていると「大丈夫?」と元気のない彼女を心配し、フィリップが声をかけた。
――やっぱり、優しい人だな……
嬉しさと恥ずかしさで、アンジュは彼の方を向けなかったが、気を悪くさせるといけないと考え、何とか小さな笑みを作る。こういうことも、だいぶ慣れてきた。
「ありがとう。何でもないの。心配かけてごめんなさい」
こう言った瞬間、エレンの『甘えないで』という言葉が、また脳裏に過った。
またやってしまった……とその度に自己嫌悪になる。どうして自分はこうなんだろう。すぐ落ち込んで、周りに心配かけてばかり……
「何かあった?」
ますます暗い表情になった彼女を見て、フィリップは尋ねた。
「えっ…… どうして……」
「君、結構わかりやすいから」
驚く彼女にそう言い、ははっ、とフィリップは可笑しそうに笑う。
「大丈夫、よ……」
――ここで話したら、また困らせてしまう……
アンジュは必死だった。それに話したら、エレンの悪口になりそうで嫌だったのだ。
「無理には聞かないけどさ。何でも相談してよ。友達なんだから」
そう屈託なく言う、彼の穏やかな笑顔と、『友達』という言葉に、嬉しい反面、少し胸が痛くなったが、心の扉が揺さぶられ、開かれる気がした。
――話した方がいいのだろうか。上手く言えるか分からないし、怖いけど……
「あ、あのね……」
「うん。何?」
躊躇いがちにゆっくりと、アンジュは口を開いた。
「……こんなに、甘えていいのかな?」
「え?」
珍しく怪訝そうな表情で、彼は聞き返す。
「私、助けてもらって迷惑かけてばかりで、二人に頼り過ぎてると思って…… 謝れば許されるとか思ってないつもりだったけど、気づかないうちに、そういうことしてたのかなって……」
彼は暫く黙って聞いていたが、やがて、ゆっくり口を開いた。
「……いいんじゃないかな」
「え……?」
「助けてもらっていいんじゃないかな。だって、人って完璧じゃないんだし、もし、世界が一人で何でもできる人ばかりだったら、誰かと関わる必要ないよ。それって、寂しいと思わない?」
フィリップの優しい言葉が、一つ一つ、心に刻まれていく。
「……神様はどうして、人間をみんな同じように創らなかったんだろうね。生み出すだけだったら、わざわざ髪や肌の色、性格の違いを出さなくたっていい。きっと、僕らが助け合うようにするために、似た人間ばかりにしなかったんじゃないかな」
彼の口調には力強く、自身に言い聞かせるようなニュアンスがあった。
「それに、迷惑だと思う人ばかりじゃないよ。むしろ僕は、嬉しい。必要とされてるんだって思うし『生きてる』って感じるから。助けてもらってるってことに、きちんと感謝して律しておけば、甘えにはならないと思う」
生まれて初めて耳にする、至極温かくて優しい、真っ直ぐな言葉の連続に、何か一つの美しい旋律を聞いているような感覚に、アンジュはなった。
今までとは別人みたいに、最近、自分の涙腺が緩くなっている。目頭が熱くなっていくのが判り、慌てて隠そうとしたが、そんな彼女の手を、フィリップは自分の手で止めた。
「泣くことだって、人間しかできないことだよ? らしくいたらいい」
そう言って、優しく微笑む彼を見て、アンジュの心のストッパーが外れた。自然に眼から熱い水滴が零れる。人前で泣くのは初めてだった。
溢れる涙と掴まれた手首が、そこだけ熱かった。彼の言葉の一つ一つが、乾いた心に優しく沁みこんで、少しずつ潤っていくのが判る。
――この人が好き。この人の声も、言葉も、笑顔も…… 好き、大好き……
フィリップが、自分のことをどう思っているのかは分からない。エレンの言うとおり、彼は誰にでも優しいのかもしれない。自分だけが特別じゃない。
でも、今、彼がくれた貴く綺麗な言葉は、笑顔は、自分だけのものだ。その一つ一つを、アンジュは、大切に心の宝箱の中に閉まった。
「……ありがとう」
ふわっ、と泣き顔で微笑む。すると、フィリップは、そっ、と手を離して、照れくさそうに言った。
「……君は、歌手になるの?」
「え……?」
唐突な彼の言葉に少し困惑し、アンジュは不思議そうな表情を浮かべる。
「フランスにいた頃、父さんに連れられて色んな人の歌を聴いたけど、君のはすごくいいと思う。心が洗われるし、癒されて好きだな」
褒められた喜びと『好き』という言葉に、アンジュの心は、どきり、と反応した。心臓の音が、一層、高鳴り強くなる。そんな気持ちを悟られないよう、慌てて平静を装って言った。
「あ、ありがとう。でも、夢とか考えたことなかったな。とにかく毎日を過ごして、歌いたくて歌ってた。それだけ。フィリップは? サーファーになるの?」
「いや、僕の将来は、もう決められてるから。ゆくゆくは、父さんの跡を継ぐ事になってる」
少し悲しそうな顔に変わり、フィリップは答えた。遠く、哀しい眼差しで、澄みきった厳かな秋の海を見つめる。自分を取り巻くしがらみ、どうしようもない運命と向き合うように。そんな彼にかける言葉が、アンジュには見つからない。
「……アンジュ。一つ、頼んでもいい?」
急に向き直り、何時になく真剣な眼差しで問いかけた。
「え……? 何……?」
「君は、夢を叶えて欲しい。歌手じゃなくてもいい。僕の分まで、夢を忘れないで生きて欲しいんだ」
「フィリップ……」
「一方的でごめん。でも、本当に、君の歌声は、もっと沢山の人に聴いてもらいたいんだよ。それだけの価値がある。少なくとも、僕は元気になれた」
震える位の瞬きで胸がいっぱいになり、何も言えないアンジュに、彼は続ける。
「そして、いつか大勢の人の前で歌う君を見てみたい。そんな君を、誇りに思うよ」
そう言って、フィリップは、真っ直ぐな眼差しで彼女を見つめた。瞬間、アンジュの心は激しく揺さぶられ、撃ち抜かれる。
今までは、いつか養女になることが夢だった。幸せな家庭の中で愛される事を望んでいた。親にすら見捨てられた自分が、誰にも認められない自分が、惨めで悲しかった。
でも、自分の歌で感動してくれた人が、少なくとも一人いた。自身の力が、誰かの役に立つことの喜びと素晴らしさを、生まれて初めて、沸々と感じている。
「フィリップ」
儚くも心をこめながら名前を呼んで、アンジュは右手の小指を、ぴん、と立てた。その目には、嬉し涙がまだ光っている。
「約束する。まだ、何ができるか分からないけど、でも、貴方の言葉は絶対に忘れない」
掠れた涙声で告げ、おそらく生まれて初めてであろう、しっかりとした強い眼差しで、彼を見つめ返した。
「……迷惑じゃない?」
「そんな。貴方には感謝してるのよ。それに……」
珍しく不安気なフィリップに、アンジュは続ける。
「私、今、多分、生きてるっていう気持ちで、いっぱいなの」
この言葉を聞いて、フィリップは心から嬉しそうに、にっこりと笑った。彼女の細く小さな小指に自分の小指を、ぐっ、と絡める。
アンジュは、いつも夢見ていたお伽噺を思い出していた。閉じ込められたお姫様を、助けに来てくれた王子様。ここから連れ出してくれる神様を待っていた。
でも、やっと現れた王子様は、違う意味で、自分を助けてくれた。大切なこと、生きる力を教えてくれた……
秋の海辺で交わした、小さな約束。絡めた小指と小指が、二人の心のように、しっかりと結びついている。
そんな二人を、じっ、とエレンが物陰で見ていた。その瞳には、嫉妬と焦燥の炎が揺らめいている。
幼い頃からずっと、彼女はフィリップのすぐ側にいた。彼の一番近くにいるのは、自分だと思っていたのだ。一人っ子で、母を数年前に亡くした今、彼女にとってフィリップが全てだった。だけど今は、隣に自分ではない女の子がいる。
――彼だけは、絶対に渡したくない……!!
胸の奥に激しく渦巻く、どす黒い感情が、彼女を呑み込むように支配していった。
数日後の夜。フィリップは、自宅で父親に呼び出された。仕事が忙しく、あまり家に帰らない父にしては珍しい事だ。妙な違和感を胸に、恐る恐る尋ねる。
「父さん、何の用?」
フィリップの父――ベルモント氏は、豪華な装飾の付いた自分の書斎で、パイプを揺らしながら切り出した。
「……お前、最近、孤児院の娘と親しくしてるそうだな。恋人か?」
フィリップは吃驚した。アンジュのことは、誰にも言っていない。何故、父は知っているのだろう。動揺を隠して、冷静に答える。
「……恋人じゃない。大事な友達だよ」
「どっちでもいい。今すぐに、その娘とは縁を切れ」
有無を言わさない、一方的な言葉。こんな命令を聞ける訳がない。
「嫌です」
「何だと!?」
怒りを剥き出しにした父に、彼らしかぬ激した声で抵抗した。
「いくら父さんでも、僕の交友関係まで縛る権利はない!!」
「フィリップ!!」
ドン、と激しく机を叩く音と共に、ベルモント氏は叫んだ。こんなに感情を顕に爆発させた父を見たのは初めてだった。脅かされ、フィリップは反射的に身震いする。
「お前は、ベルモント家の大事な跡取りだ。もっと自覚を持て」
「身分の低い……増して、どこのどんな人間か判らない、孤児院の娘なんてもっての他だ。許す訳にはいかない」
悔しげに唇を噛みしめ、フィリップは父の言葉を聞いていた。そんな息子にベルモント氏は続ける。
「それに近いうち、お前は、富豪の娘と結婚することになる」
寝耳に水な話に絶句し、フィリップは思わず父を凝視した。
「だから、今、変な噂が立っては困るのだ。もっと身を慎め」
至極、当然かのように自分の将来を定め、進める父。今まで以上の無力感に襲われ、憤りや怒りを通り越す。彼の心は、底無しの哀しみに落ちた。
「それって……政略結婚、じゃないか……相手は……?」
「お前も、よく知っている娘だ。安心しろ」
すっかり憔悴し、ショックで感覚が麻痺していたフィリップだったが、ふと、一人の少女の像が脳裏に浮かぶ。
「……エレン?」
すると、ベルモント氏は、窓の外に目をやった。
「彼女なら気心も知れてるし、文句もあるまい?」
愕然とした彼は、次の瞬間、信じたくない事実に気づいた。アンジュの事を知っている人間は、一人しかいない……
「まさか、アンジュ……彼女の事を、父さんに教えたのは……」
その質問には答えなかったが、彼の無言の背中が、それが間違いではないと言っている。そんな父の背中を呆然と見つめていたフィリップの中で、何かが――砕け落ちた。
↓次話
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