戦火のアンジェリーク(8) 2.London ~ the UK
2.London ~ the UK
名も無き戦い
晩餐会から一週間程が経った午後。ジェラルドは、日課でもある、自宅の庭園を訪れていた。刺すように凍てついた風が吹き抜ける今の時期、あの美しい花達の姿はほとんど無い。それでも、彼は、子供の頃から真冬にも来ていたのだ。
発芽や開花はしていなくとも、花は土の中で確かに生きている。そんな彼らを世話する庭師にとって、季節は関係ない。多少、仕事は減るが、土や苗木の状態を見る事は欠かさなかった。そんな庭師に会いに、ジェラルドは通っていたのだ。寂れた風景は、沈んだ心をますます闇に追い込む。今日は、特に、彼と話がしたかった。
「……先日、公爵様から、鮮やかな色、華やかな色の花は、全て撤去するよう言われました。国からの要請だそうです。開花の時期ではありませんが、植えた木々は抜かねばなりません。ポピーは勿論……薔薇も、でしょうな」
淡々と他人事のように、理不尽な事柄を語るスコットに、ジェラルドの胸が痛んだ。長年、手塩にかけて育て上げてきたものを、自らの手で無に還す。彼にとっては、身を切られるような所業のはずだ。
残酷な仕打ちを受け入れるしかない彼の姿に、苦い既視感に襲われた。皮肉にも自分で、自分の大切なものを壊さねばならない状況……
大好きな歌で戦争を鼓舞したアンジュ。そして、名ばかりの肩書きで、そんな彼女を失う自分。ままならない世知辛い世界に、今まで以上の嫌悪と失望、無力感を覚えた。
「ア……彼女も、悲しみますね」
ふ……と力なく微笑み、スコットは続ける。
「……仕方ありません。戦時中だからという名目だそうですが、恐らく空からの爆撃の標的になりやすいからでしょう。北欧も攻められたそうですし、我が国も空襲が始まるのは時間の問題でしょうな」
過去に大戦を経験した彼の予想には、事の重大さと命の危機が迫っている現実が、ひしひし、と伝わってくる。
「ジェリー坊っちゃん」
改まった声色で、スコットはジェラルドを呼んだ。
「……あの娘と、何かあったんですか?」
「え……?」
「長い付き合いですからね」
何でもお見通し、と言わんばかりの彼に、『この人には敵わないな』と、ジェラルドは自嘲半分、妙な嬉しさに満たされた。持って来ていた大きめの茶封筒を、彼に手渡す。
「アンジュ……彼女が、例のソロデビューする日に歌うはずだった楽曲の楽譜です。歌詞が反戦歌ということで、披露は無くなりましたが」
「そうですか。あの娘が……」
代わりに戦争讃歌を歌わされた事は言わず、敢えて伏せた。わざわざこの人に知らせる必要も無いし、彼女も決して望んでいないだろう。
封筒を受け取ったスコットは、ポピー畑の中で嬉しそうにしていた彼女の姿を思い出し、何とも言えない切ない思いに駆られた。
「ワーグナー団長を説き伏せて、譜面だけ貰いました。……初めて、公爵家令息の権力を使いましたよ」
「……坊っちゃん」
複雑そうに苦笑するジェラルドを、スコットは驚きと共に、どこか嬉しそうに凝視した。
「歌詞は、さすがに流出させられないと言われたので、先日、彼女が密かに歌ったのを聞いて、覚えている限りですが書き移しました。どうか見てやって下さい」
「……今でも?」
頷くジェラルドを確認し、中の譜面と共に書かれた歌詞を読んだ彼は、次第に熱くなる目頭を、思わず指で抑えた。ポピーをモチーフにしたという、戦場で失われた命への鎮魂歌。
戦争を知らないはずの、あの成人し間もない娘は、自分の話を聞き、どんな思いでこれを書いて、歌う事を諦めたのだろうか。彼女の優しさといじらしさに、未だに疼く心の痛みが、幾分か和らいだ気がした。
「……坊っちゃんは、あの娘が大切なんですね」
「え……」
楽譜から自分に視線を移した彼の言葉に、ジェラルドは面食らった。寒空の下で冷え切った頬が、一気に熱くなる。
「彼女とは、一度しか会っていませんが、誰かといてあんなに楽しそうな貴方は、初めて見ました。……いい娘ですね」
幼い頃からの自分を、ある意味両親よりずっと知っている彼の言葉に、今のジェラルドに否定する気は湧かなかった。先日、初めて深く触れ合い、その直後に見た彼女の精一杯の儚い笑み、健気な想いが脳裏に過る。
「……そうです。本当に……俺とは違います」
思いがけず突然出逢った、惹かれて止まない存在。だが、自分の手には届かない。いや、守れないのだ。
「……彼女といられるなら、公爵の身分など捨てても構わない。貴方は気づいておられるでしょうが、元々、俺にそんな肩書きは無かったんです」
自嘲気味に、ふっ、と力なく笑う。
「とはいえ、その名ばかりの身分と財産に守られ生きてきたのも事実です。そんな何者でも無い自分が、こんな情勢下に、人一人支えて生きていけるのか、彼女にも全てを捨てさせてまで、一緒にいて良いのか……判らない……」
貴族にとって、醜聞は命取りにも成りかねない。家名も社交界も捨てた自分と生きるということは、アンジュにも楽団を辞めてもらい、噂も外聞も届かない、ロンドンから遠く離れた土地で、二人で暮らすということだ。
今の過酷な状況は、彼女の精神衛生上、決して良いとは言えない。だが、折角入った歌を磨く場所、努力を重ねた名声まで、自分の為に捨てさせて良いのだろうか……
「……本気で好いていらっしゃるのですね」
感慨深そうに呟くスコットの言葉が、どこか他人事のように耳に入り、茫然とした面持ちで、ジェラルドは彼を凝視した。寂しさ故にとはいえ無差別な色事と情事、自身の装飾と美容に耽り、息子二人の世話は乳母と使用人に任せ、目もくれない母。そんな妻に必要以上には接せず、世間体を気にして離縁しない父。
それでも『愛してる』と、互いに顔を合わせては、当たり前のように告げている二人。虚栄心と歪なプライドの塊という面は、皮肉にも気が合ったのだろうか。物心がついて大人になり、やがて、そんな両親に違和感を感じ始めていたジェラルドには、それが日常的な挨拶とも社交辞令とも違う、何かの契約の儀式のようにも見えていた。
それ故か、ずっと、男女の恋や真実の愛やらという類いの情を嘲り、ずっと見下していた。そんな自身に芽生えたばかりのこの想いが、それに当て嵌まるのか分からないのだ。
「儂は、前の大戦で息子夫婦を亡くしました。……孫も一緒でした。生きていたら、坊っちゃんと同じ年頃だったでしょう」
今はその面影の無いポピー畑に、哀しく遠い眼差しを向け、突如、スコットは語り始めた。初めて聞く彼の過去に、ジェラルドは戸惑い、驚く。
「その後間もなく、病気がちだった妻も心労が祟って亡くなり、自分だけ何故生きているのだろう、と無気力になり、惰性的に花の世話をするだけの日々でした。……そんな中、儂が育てた薔薇を毎日のように見に来て下さる幼い貴方が、段々、本当の孫のように可愛く思えて……救われたのです」
思いがけない彼の言葉に、ジェラルドは瞳孔を見開く。そんな事は全然知らなかった。
「反面、御家族に冷遇されているのが気の毒でならなかった。そんな貴方が、人を……あの娘に惹かれ、恋をされた」
皺のある目元を細め、嬉しそうに微笑む彼に、途端に照れ臭くなり、ジェラルドは目を伏せた。
「命の存続すら危ぶまれる時世です。人並みに生きるのさえ、確かではありません。奴らは……戦争は、全てを壊し、奪いにかかって来ます。勿論、我が国も防御はします。が、攻撃を受け、応戦すると決めたのです。この庭園も、明日にはどうなるかわからない。儂も、貴方も、あの娘も、です」
ジェラルドは、はっ、と何かが醒めたように顔を上げ、スコットを凝視した。淡くも直向きに生きるアンジュの姿が魅せられるように、混沌としていた彼の脳裏に浮かぶ。
「たとえ明日この庭が無くなろうとも、今日、花達を育て、見守り、愛でる。この花達の生き様が、誰かの記憶に残るように。それが、今の儂なりの……戦いです」
彼の刹那的で清廉な想いに圧倒され、ジェラルドは言葉を失った。一度、全てを奪われ無くした人間の、多大な絶望と怒りから生まれたのであろう、狂気とも言える位に崇高で、強靭な意志と再生力。
普段、温厚な彼から滲み出る覚悟の強さは、その穏やかな振る舞いに似つかわしくなく、並大抵のものではない。
「……覚えておられますか? 薔薇を見に来て下さるようになって暫く経った頃、刺で指を怪我された時、貴方は尋ねられました。『どうして、こんなに刺があるの?』と」
「はい。覚えています」
ジェラルドにとって、印象深いやり取りだった為、朧気にだが記憶に残っていた。
『虫や小動物に食べられないよう、こうして自分を守っているのですよ』と丁寧に返したスコットに、物心ついた彼は言ったのだ――
『……かわいそうだね』
『え?』
『こんなにきれいなのに、誰にもなでてもらえない。……僕にも刺があるから、みんな近寄らないのかな』
年端もいかない公爵令息が、何故か腫れ物扱いされている状態を、当時のスコットは漠然と不振に感じていた。グラッドストーン公爵から、息子に余計な事を吹き込まないよう忠告されていた彼は、少し考え、言った。
『……違いますよ。貴方の心が薔薇のように美しく、気高く、魅力的だから、刺の方が貴方自身を守っておられるのです』
驚いたように、ぽかん、とした表情をする幼い少年に、スコットは続ける。
『坊っちゃんのお名前には、刺と似た意味があるのですよ。『槍』、そして『戦士』です。解りますか?』
呆然としたまま、こくん、と素直に頷くジェラルドに、彼は諭した。
『いつか、貴方に大切な方が出来たら、今度は、その人を守ってあげて下さい』
――…………
記憶が少しずつ甦ってくると共に、ジェラルドの脳裏に、幾つもの眩い光が弾けては、咲いた。
「俺、は……」
そんな彼の様子を確認したスコットは、一枚のメモ用紙を手渡した。そこには、ロンドンから西に遠く離れたウェールズ地方にある町と、スコットランドのとある地方の住所が書かれていた。
「親友と従兄弟が、其々住んでいます。情勢が不穏になった今、困った時は頼って良い、と言ってもらっていました。貴方の事も知っております」
「スコットさん……!?」
彼が自分に言わんとしていることを、ジェラルドは察し、言い様のない熱い激情が押し寄せ、胸が詰まった。
「大変厳しい道のりだと思います。育ちの違いや苦労故に、壁にぶつかる時もあるでしょう。ですが……」
「こんな残酷な世界だからこそ、折角出逢えた大切な方と愛を育み、命ある限り、精一杯生きて下さい」
「なら、貴方も一緒に……!!」
「……儂は、この庭園を離れることは出来ません。この花達は、今や我が子同然ですので。大丈夫。なるべく、自分の身は自分で守りますよ」
スコットの皺に囲まれた穏やかな瞳の奥に、全てを悟ったような、固く揺るぎない覚悟の色が見えた。いざという時、彼はこの庭園と共に、心中する気ではないだろうか。
そう思った途端、全力で引き留めたい衝動に駆られた。が、そんなジェラルドの思い全てを見透かし、優しく諭すように包み込む、切なる眼差しが言葉を止めた。
彼が、長い年月の中で背負ってきた経験の重みも痛みも、理解したと言うのはおこがましく思えた。ぎりっ、と奥歯を噛むと同時に、目の前が水の膜に揺れ、霞む。
本来なら、最も愛してくれるはずの両親に、厄介者、存在しない者として扱われている事に気づいた時の絶望と、堕落感。そんなものは幻想、少なくとも、自分には縁の無い、危うい遊戯だと思った。
だが、違った。そんな風に思っていた日々の中、すぐ近くで、異なる形の愛が、確かに存在していたのだ。
「どうか、お幸せに。――ジェラルド様」
穏やかな笑顔と礼儀ある態度で、恭しく頭を下げたスコットに感極まったジェラルドは、涙で滲んだ眼をきつく瞑る。いつの間にか、背丈も身幅も彼よりずっと大きくなっていた身体で、敬意あるハグを、力強く返した。
追復する心
同じ頃。アンジュは風邪を引き、屋根裏の自室で寝込んでしまっていた。熱を出してすっかり憔悴し、喉も痛めている。
心配したクリスが、稽古後、薬と差し入れを持って見舞いに訪れた。火の消えかけたストーブにも薪を追加してくれる。冷え切って寒々としていた部屋が、救われるように暖まっていく。
「クリスさ、ん……すみませ……」
「疲れが出たのね。急に環境も変わったし、色々大変だったもの。仕方ないわ」
美声で紡がれる、温かみのある優しい言葉が弱った心に沁み、目頭が次第に熱くなる。彼女に伝染る事も懸念し、毛布で顔半分を隠した。
「……団長には、少し、叱られました。体調管理も……仕事の、うちだって。情けないです……私」
弱々しく掠れた声で、自嘲気味に微笑むアンジュが、痛々しく映る。
「……水飴とジンジャーをお湯で溶かしたの。飲んで」
クリスは複雑そうに微笑み、温かいコップを手渡した。かじかんだ指先の感覚が、じんわりと戻ってくる。
「本当は蜂蜜が良いんだけど、最近、物が不足していてね。高くなったの。ごめんなさいね」
熱く蕩けるような甘さの中に、時折、ピリッとした辛味が混じる、切ない味。今の自身の心境と、どこか重なる気がした。
そんな感情全てを鎮め、押し込むように中身を飲み切ると、喉は少し楽になった。いつも気にかけて心配してくれるクリスに、今までの事を打ち明けよう……とアンジュは決意する。故郷で出会ったフィリップ、歌手を目指した経緯、ジェラルドとの出来事を、少しずつ、簡潔に話し始めた――
……全てを聞いたクリスは、案の定、心から驚いたと言わんばかり、と同時に感慨深い表情をした。
「……意外ね。あの人は、そんな風に他人と深く関わるようには見えなかったわ。非情で冷たいって、皆によく言われてたもの……」
女の先輩として、続けて気の利いた助言をしてあげたいと思ったが、アンジュが抱えている悩みが、切実で、尚且つ疑似感ある内容だった為、茫然としてしまい言葉が出なかった。
「暫くは、何も考えないで休みなさい。彼の事も……」
「……いいんです」
言い澱みながら労るクリスの言葉を、口元に僅かな笑みを作って、アンジュは遮った。
「私の為にも、これで良かったんです。楽団を止めて、公爵家……上流階級の方と関わるなんて無理ですし…… 有名な歌手になって、フィリップ……夢をくれた人にステージで聴いてもらう事が目標でしたけど…… 戦争讃歌しか歌えない今、そんなのは、嫌で……」
胸奥が詰まって感極まり、アンジュは毛布に顔を埋めた。矛盾した想いと様々な考えが、彼女の頭の中で響いては反発し、大きな不協和音を鳴らす。
「……私は、歌姫失格です。彼……ジェラルドさんの事ばかり考えてしまうんです。自分でも怖いぐらい……可笑しいですよね……」
自嘲気味に呟き、振り絞るように言葉を紡ぐ。こんな状態になるのは初めてで、自身をコントロールできない。
「本当は、今すぐ会いたくて……仕方ないんです」
切々とした熱を含んだ、情念ある台詞を吐き、俯いてしまった彼女の姿にクリスは心打たれ、ほうっ……と感嘆の息を漏らした。
「……愛ね。素敵だわ」
「あ、い……?」
耳慣れない、そして、自分には手の届かない、天にしか存在しないような言葉。
「そうよ。そんなに好きなのに、彼の立場を考えているんでしょう?」
「そんな。違…… 前みたいに負担になって、迷惑がられたくない…… 嫌われたくない、だけです……」
フィリップとの一件で、アンジュは自分の負い目を痛い程、身に刻んでいた。昔、彼は『頼られるのは迷惑じゃない。嬉しい』と言ってくれたけど、結局、自分のせいで苦しめてしまった。ただ、好きで好きで、少しでも一緒にいたくて、彼の姿を必死に追っていたあの頃……
『ポピーの涙』の歌詞で、『愛した』『愛してくれた』という言葉を使ったが、それは、孤児院に居た頃に見た、幸せそうな家族の様子やスコットさんの話を思い出しながら、憧れ混じりに書いたものだ。
手にしたことの無い貴い宝のような、他人事のように認識していた『愛』が、自身に関わるモノとしては考えていなかった。
「……『愛』ってどんなものか……わからないんです。好かれたくても……迷惑がられたり、困らせてばかりだった…… 最近、好きにすらなったらいけないんじゃないか、と思ってて」
思わず『そんなことないわ』と言いかけたが、クリスは言葉を飲み込んだ。彼女の記憶の扉が開き、苦い何かが過ったのだ。一息つき、代わりに違う考えを伝える。
「……今回は違うんじゃない? 今頃、彼も、貴女と同じような気持ちで……苦しんでると思うわ」
はっ、と不意を突かれ、何かから少し醒めた表情で自分を見つめたアンジュに、クリスは語り始めた。
「……私の家は母子家庭でね。家計の為に、貴女位の年に働き始めて、楽団に入ったの。女手一つで育ててくれた母は、私の事も大切にしてくれたけど、無理が祟って、体を壊してしまったから」
いつも明るく華やかな彼女から想像出来ない、重く深刻な話だった。少し懐かしそうな、それでいて複雑そうな面持ちで、クリスは続ける。
「遠い国から来て、独りで頑張ってる貴女が孤児だって聞いて、何だか昔の自分を見ているみたいで……放っておけなかったの」
「クリスさん……」
『まさか、あの彼女が自分なんかと』という思いを込め、アンジュは憧れの人を呼ぶ。
「昔……楽団に入る前、歌手を夢見てバーで歌ってたんだけど…… 私もその時、好きな人が出来たの。その人は店の常連さんで、実家の大病院に勤める医者だった。彼も私を愛してくれて、結婚まで考えたけど、彼の両親に猛反対されたの。息子は優秀な後継ぎだから、そんな女とは結婚させられないって言われて」
初めて知った、彼女が抱える事情。当時のクリスの気持ちが、今のアンジュには痛い程、わかる気がした。
「同じ頃、ワーグナー団長にスカウトされたの。結局、彼と別れて、楽団に入って歌姫になる道を選んだ。ずっと夢だったから、これで良かったと思ってるわ。けど……」
艶やかな美声が少し憂い、重く影射す。
「たまに思うの。あの時、全てを捨ててあの人と生きていたら、今頃どうなっていたんだろうって」
当時の自身に思いを馳せているのか、そこにいない誰かを見つめるような、哀しく遠い眼差しになった。そんな姿さえも、アンジュには美しく映り、魅せられる。
「歌は、声と実力さえあれば、どこでも歌えるわ。場所や仕事は限られてしまうけど……」
切なげな雰囲気を振り切るように改まり、クリスは、しっかりとした口調で、一言、一言をアンジュに語る。昔の自分の面影に重ね、説いているのだろうか。
「心の声を、よく聞いて。自分が、本当に一番望んでいるものは何か。何故、歌いたいのか。心の奥底まで、よく耳を傾けて。後悔だけはしないように」
彼女の誠意に溢れた心のこもった助言が、今のアンジュには有難く、嬉しく思った。しかし、ずっと自分と向き合う事をしていなかった自身にとって、心の声というのは、剰りに頼りなく、か細く、不明確な存在だ。
ただ、昔から、自身の奥底の何かが、乞うように叫んでいる事だけは、痛い程に、判っていた。
一方、スコットの想いに背中を押されたジェラルドは、自室のデスクで万年筆をとり、戸籍上の父親に向け、一人で手紙を書いていた。
出来るならアンジュと話をしてからにしたかったが、今の時世、いつ何が、自分の身に降り掛かるかわからない。これは、現在の自身の『決意表明』もしくは『嘆願書』だ。慣れ親しんだはずの自室の空間が、不気味な位の静寂に包まれる。
『拝啓 父上。もとい、グラッドストーン公爵様。
急な申し出ではございますが、単刀直入に申し上げます。私を排嫡して下さい。
私は、次男でございますし、家督や爵位の継承権はありませんので、昨今の時世から見るに、いつ徴兵されるかわからない身でございます。世間には、『息子は、国の為に志願兵になった。』とでも言えばよろしいでしょう。
元々、私は我が家にとって足枷である身でした。いつ世間から『災いをもたらした悪魔』と呼ばれるかわからない存在がいなくなれば、貴殿方にも好都合でございましょう。
思ってみれば、とうに成人している身です。棘の道のりなのは、重々承知ですが、こちらに居ても、私にとっては地獄なのに変わりはございません。
私の分の財産は、恐らく催促がある、ワーグナー楽団への寄付金、歌い手であるアンジェリークとの手切れ金にして下さい。悪しからず。
ジェラルド・グラッドストーン』
彼らしい皮肉を盛大に込めた、別離の手紙だった。
「生まれて初めて親に書いた手紙が、これとはな……」
口元を僅かに歪め、ジェラルドは苦笑した。そんな運命を再び呪い、囚われるのは簡単だが、今の自分にはうんざりに思えた。今まで散々、恨み、嘆き、捨て鉢に生きてきたのだ。
椅子に背もたれ、上を向き、刹那的な鋭い光を帯びた瞳で、天井を見つめる。もし、我が人生に、過去を振り切る時が与えられるのなら、それは今だろう。
きっかけをくれたのが……彼女だ。あの娘のように、僅かでも……希望がある限り、恐れても必死に追いかけ、未来を見据えながら生きたい。もしも明日、この地に終焉が訪れるのなら、その時まで、彼女といたい。それが叶わぬなら、せめて彼女の為に生きたい。
どうせ地獄の道を歩くなら、彼女がくれた光の種火を燃やし、ずっと纏っていた鎧諸とも、その陽のフレアで魔も邪も、全て払いのけ、我が身尽くしてでも進んでやる――
その月の最後の晩餐会。年を越してから、公爵家は、パーティーの回数を必要最低限に減らしていた。時世的な自粛という名目だが、貴族が財産の倹約という選択をせざるを得ないくらい、情勢は不穏だったのだ。
同時に、ジェラルドが楽団の者と顔を合わせられる回数も減り、この機会を逃してはならないと、必死にアンジュを探す。しかし、いつも大勢の中でもすぐに見つけられる、彼女の姿が見当たらない。不審に思い、楽団の誰かに尋ねようしたが、自分が噂されていることを思い出し、忌々しげに躊躇する。
「いきなり、失礼。ミス・コーラル殿」
アンジュと何度か一緒にいるのを見かけたクリスに、周囲に配慮しながら、ジェラルドは恭しくお辞儀をしながら、礼儀正しく声をかけた。
「まあ…… 何でしょうか? マイ・ロード。(貴族の令息に対する下流層からの呼び掛け)ジェラルド・グラッドストーン様」
先日、相談を受けたアンジュの意中の相手から、初めて声を掛けられ、クリスは内心動揺した。しかし、努め抑えにこやかに返す。この人は、こんな紳士的な振る舞いが出来る人間だったのか……
「アンジュ……アンジェリークは? 今夜は、出演は無いのでしょうか?」
「彼女は、単独の仕事に呼ばれていて、今夜は来ませんが……?」
歌手として、名がそこそこ知れた彼女には、今や珍しい事ではなかったが、至極肌触りの悪い勘が、ジェラルドの脳裏に鋭く走る。
「そうですか。どんな用件で?」
「……? 別の貴族の方にご指名の依頼を頂いていて、その方に歌を披露するらしいです」
冷静なまま礼儀ある態度を崩さずにいるが、どこか焦りを含んだ声色で問う彼を、クリスは不審に思った。
「一対一の、対面式なのですか?」
「そのようなケースもたまにありますが、大抵は歌い手が一人で招かれ、このような会場でショーのように披露します。あの、何か……?」
異様な寒気を感じたジェラルドは、思わず会場をぐるりと見渡した。そう言えば、兄のロベルトも、珍しく今夜は来ていない。思えば、朝から妙な目付きで、自分を見て来る彼が気味悪く、不審だった。
「…………!!」
何かを察した。頭の中で危険信号が鳴り響く。一気に血の気が引き、唇が乾き、冷や汗が吹き出した。
「場所は? わかりますか!?」
激しい動揺を顕にし、どこか怒りを含む意を隠さず、切迫して詰め寄る彼に、クリスは緊急事態が起こったことを察する。
非情とまで言われていたこの人が、今、誰の為にここまで取り乱しているのか。それは、自身にとっても特別な人物なのは、明らかだった。
↓次話
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