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遊びの師匠
立夏|蛙始鳴
令和6年5月6日
以前のコヨムのレターで紹介されていた「こころの旅」をGW中に手に取った。30歳を迎え,暮らしのいろいろが劇的に変化してきた。特に2年前に子どもが生まれてからは,私の「こころの旅」に凄まじい変化が訪れた。そんな折にちょうどよく紹介されたものだから,気忙しい日々が少しでも客観的に眺められると期待して,子どもが寝静まったあとにゆったりと自身のこころの旅をなぞっていった。
家庭内への子どもの参入は,異質な他者を迎える営みであって少なからず摩擦が生じる。ときにこころの余裕はなくなり冷静に対峙することが危うくなるほど,それほどまでに生活に疲弊していたことも正直なところだ。
なぜハサミで遊ぶ二歳児に危うさを感じるのだろうか。危ないからと取り上げそうになる心をぐっと堪える。危険に対して先回りしすぎることが正しいことではない気がする。子育てとは忍耐である。自分だって包丁で指を切ってきたし,熱湯が触れて火傷を負ったことが幾度となくある。そうした経験のなかで,「痛い」や「熱い」を学んできた。その知恵をもって子供の体験を奪うことはなんだか躊躇われた。危険や愉しみをロジカルに説明をしても,そもそも前提としての語彙が通じなかったり,論理では通じないことが多々ある。そんなときに,ふとハイコンテクストに通じ合う仕事の言葉が恋しくなったりする。
書籍の第二章で「人間らしさの獲得」が書かれている。父という役割をまとった私自身も,子と同じ齢を歩んでいたわけだが,当然「人間らしさ」を獲得した瞬間の記憶はない。その章のなかに「あそび」という小節があって,五ヶ月児が新聞を振り回して出る音の遊びを発明したことを取り上げて,「自ら行動の主体となった喜びであろうか -p.36」と観察されている。思い出されるのは森田真生さんが『まだ意味のない世界の方へ』というインタビュー記事で語った遊びについてだ。
森田:
遊びというのは、既知の意味に回帰するのではなく、新たな意味が見つかるまで現実と付き合うことです。(中略)まだ意味のない世界で遊戯的に生きるモデルを示してくれているのは子供たちだと思うんです。子供と大人が何人かで同じ場所にいると、大人が強権を発動しない限り、場を支配するのは子供たちなんですよね。そのとき大人は、意味を主宰しているのは自分たちだと思っているわけです。
30年のこころの旅を経て,「新たな意味が見つかる」ほどに遊んでいるだろうかと自問する。つまり人間らしさというものが薄れてしまっている気がする。自分とは違う他人としての子どもは遊びを反転させ,ときにヒヤッと驚かせ,ときに感激させられる。これからもいろんな遊びを教えてくれよ。
-S.F.
蛙始鳴
カワズハジメテナク
立夏・初候
毎年,この暦だけは正確に覚えている。この暦どおりに蛙が畑に登場し夜には合唱を始める。なんだか安心する暦。
参考文献
神谷美恵子(1974)『こころの旅』日本評論社
EKRITS「まだ意味のない世界の方へ」URL
カバー写真:
2023年10月21日 初めての登山。たくさんの遊びを発明しながらの登山。
コヨムは、暦で読むニュースレターです。
七十二候に合わせて、時候のレターを配信します。
遊びの師匠
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