ただ人間自身の、本質的なものの、生の、生きる姿と生体そのものを、そこにあらねばならぬ・なくてはいけない形で、表すことができる、アーティスティックなものって言ったら、「演劇」なんだよね。 【第34回 ミーム演劇教室 稽古日誌 2022.1.25開催】
<はじめに [先生曰く、「演者は四歳児の友たれ」]>
「演技」を考えたときに、「演技力」「演技術」と言われますが、その場合の「力」「術」、あるいは「技術」とは何か。
基準はどこにあるかというと、「観客」です。観客の無意識的な感覚=生理感覚に則った人間観=「生活感覚」において、どこまでその感覚に信頼してもらえる振る舞い方・立ち方・居方ができるか。そのための方法、「こだわり」が、「技術」でしょう。
だから先生はミーム演者の心得として、「四歳児の友たれ」と言います。変に芝居を見慣れた見巧者より、変に演劇を勉強した関係者より、大人よりものを知らぬが故に感覚的にピュアでありかつ残酷な「四歳児」にずっと観てもらえる演者であれ、と。
「技術」「こだわり」は表現において必須です。しかしそれを用いる当の目的である「生活感覚」は不定型なものです。だから固定的な「技術」「こだわり」に安住することはできない。しかし、生まれもった体はここにひとつあるのみで、利き手や癖など、定型的なものも存在する。
この、「しかし」を2回重ねなければならないような微妙なバランスを、演技者は見つめ、表現の中へ落とし込んでいかなければならない。
以下の先生の話は、そんな内容です。
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<宮武先生の話 [「技術を高める」しかない]>
「お前(寺原)の性格っていうわけではけれども、アーティストというのは「冒険ができない冒険者」なのよ、基本的には。そうしないと社会で生きていけないから。アーティストという名前をもらうため、社会でお金もらって生きるためには、それをずっと演じていかなくちゃいけない。
するとそれを演じることによって、自分が麻痺して、冒険を忘れたそれがアーティストだと認識しちゃって、自分自身がその枠の既成概念の”アーティスト”という枠の中にはめ込んでそれを演じて生きている。
絵もそうで、絵の技術によって技術に束縛されて、絵がどんどん凝縮していってしまう。冒険してそれを壊すって言ってもなかなか壊せない。音楽もそう、西洋譜面を作って、その譜面から離れることができない。歌舞伎もそうだ。型があって、それを壊すことができない。
じゃあ冒険して型を壊そうとするのはこれも、パフォーマンスのアーティスティックなことよりも、自分の見栄とか利権とかいろんなものがあって、壊しに入る。だからその邪推と邪道の世界に行き来しながら、壊していく。
それを越えるには、演るしかない、「技術を高める」しかないということだ。自分がやっているものが、「いかに自分の精神性のピュアな部分と非常に合体してそこにあるか」ということを、「ワンアクション、一つの動作がいかに心地良いか」ということを探していかないと、それを越えることができない。本当のアーティスティックなものに近づくには、本当に現場一回一回ごとを、新鮮に自分が感じて、生き生きとリアルに味わいながら舞台ができないと、アーティスティックなものを見つけていくことができないんだよね。常に完成形態の目標を捉えて、そこに合わそう合わそうとするのは、全然冒険ができない冒険者たち。今の、いわば「社会に生きなくてはいけないアーティスト」たちだ。
私たちが望むものは何かって言ったら、それとは違う。音楽よりも絵画よりも、「演劇」が初めて、既成のものを壊すことができる。なぜなら「人間」が表現媒体だから。
「人間そのもの」が表現媒体だから、既成概念を技術的なものでぶっ壊していって、つくり上げていって、またぶっ壊していくということができる。演劇だけなのよ。絵画でもないし、音楽でもない。ただ人間自身の、本質的なものの、生の、生きる姿と生体そのものを、そこにあらねばならぬ・なくてはいけない形で、表すことができる、アーティスティックなものって言ったら、「演劇」なんだよね。
じゃあバレエはどうかって言ったら、バレエはもっと束縛される。だから嫌でモダンバレエができて、モダンバレエも拘束されるから、コンテンポラリーダンスができて、コンテンポラリーも人間そのものの生き方をそのまま描写しようとしたときに、わたしたちを取り囲む「社会」というものに拘束されてしまう。同じように、私たちの演劇もそうだけども、よりピュアに、人間の生体にメスを入れられるのは、演劇のほうが近いだろうということだ。
まぁその入り口に立ったと思いたいよね。ということは今まで「入り口だね」「入り口だね」って言っていたところと、全く違う入り口に立つことが今できている。だから技術的なことも目を瞑るし、最後まで止めないで見た。
あなたが感じることに関しての、一番詰めなくちゃいけない技術的なことを詰めていって、つながっていかないことを全部「お客が見えるように」つなげて。そのためにはこだわって、違うなと思うことはどんどん変更していくことだね。」
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<おわりに>
先生の言葉は、ピーター・ブルックの「きまじめになってはいけないぞ。死守せよ。だが軽やかに手放せ」(『殻を破る 演劇的探求の40年』晶文社 1993年刊)を思い出します。
上記の他にも技術的、内容的なアドバイスをいただいたので、作品を良い方向に作り込んでいきたいと思います。
どうにか映像のような形ででも一度みなさんにお見せできたら、稽古日誌の内容もより楽しんでいただけるかと思うのですが……。公演情報も併せて、気長にお待ちいただければと思います。
2022.1.27
寺原航苹
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小屋+kop 主宰 寺原航苹
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