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人生の『不安』と、どう向き合っていけばよいか

占いをしていると様々な「人の不安」に触れる。その不安について、最近考えることがある。

不安が訪れるたび、僕らはそれを解消しようと必死になる。「不安だから何とかしたい」と素直に思えているならまだマシ。その不安が「夢」や「自己実現」という言葉できれいに装飾されていることは多い。その実態は、単に不安なだけなのに。安心したいだけなのに。

とにかく不安で気が気じゃない。この不安を見つめると、今にも吐きそうになる。現実で立っていられなくなる。それが不安。

不安というのは主観的なものだ。別に世界仰天ニュースで取り上げられるような状況じゃなくても成り立つ。客観的に見れば「あなた十分過ぎる人生じゃないですか」と言われる人も、独りになると、今にもこの世界から消えてなくなりたいと思ってたりする。不安は常にそこにあって、急に顔を出してくる。

不安を別のものに置き換えるのが僕らの得意技。「夢」「目標」「努力」「やりたいこと」。これらの言葉を使えば、途端に前向きな響きになる。

「売上〇億達成したいんです!」
「今年の目標はフォロワー〇人です!」

こうして『人生に対して前向きに頑張っている俺』という物語に没入することができる。これら"目標"を否定する人は基本的にいない。"努力は善"、"目標達成は善"という空気は自然と醸成されている。

不安から逃れるために、努力する

不安を感じると、何とかしようとする。その手段としてわかりやすいのが「努力」だ。都合がいいことに、努力は「良いもの」とされている。努力をすれば何かの問題は解決するし、評価されるし、安心できる。

が、ここで考えてみたい。僕らが「目標達成」と思ってあくせく努力するのは。単に安心感が欲しいだけでは。

掲げた『目標』やその『生き方』は、人生のスタイルとして本当に好んでいるものなのか。ただ、不安から逃れるために「努力」や「頑張り」を選んでないか。自分の感情をノートに書き殴っていると、こう突かれることが多く、非常に耳が痛い。

努力することで得られる『安心』とは、一体何なのか。なぜそれっぽい目標は、こんなにも僕らに安心を与えてくれるのか。

みんなと同じという安心

目標に向かって進んだり、それを達成したりすることで得られる安心感。それは「みんなと同じ」という感覚から来ているのではないか。この「みんなと同じ」は、ある種の『空気感』のことを指す。

例えば、

■節約を頑張って貯金が増えると安心する

「節約=賢い」「貯金できてる=ちゃんとしてる私」という暗黙の了解が、<社会>における空気としてある。

ここで言う<社会>は、必ずしも日本社会全体のことではない。その人の人間関係であり、属しているコミュニティであり、頭に浮かぶ人々のことだ。国民全員が「節約=ちゃんとしてる」と思っているわけではなくても、その人の周りにいる多くの人がそう思っているなら、それは確かな空気となって漂う。

ここで得られるのは、『みんなと同じ基準で生きられている』という安心感だ。

■スキルを身につけると安心する

「勉強することは良いこと」「スキルアップするのはいいこと」という暗黙の了解がある。スキルを持って初めて、社会人として一人前という空気感が漂う<社会>。これは今の時代かなり一般的な感覚だと思う。

■「物分かりのいい人」でいると安心する

「空気を読める人は好かれる」「好かれることが人として大事」「衝突しない人こそ大人である」。この了解が<社会>の空気として確かに存在している。

ここで得られる安心感は、「みんなと同じ価値観の中で、摩擦を起こさずに生きられている」という感覚。でもこれは「本当に自分が納得して折れたわけではなく、ただ衝突を避けることで得られる安心を選んだだけ」かもしれない。

結局この安心も、「自分のやりたいこと」とは違う。<社会>に了解された私に安心を感じてるだけかもしれない。

■フォロワーが増えると安心する

「影響力があることは価値がある」「フォロワーが多い=成功している人」「数字が大きいほどすごい」。この了解は、今の時代の特徴をよく表している。

本当に影響力を心から欲しいと思っている人は、どれくらいいるのだろう。非常に疑わしい。「世間の成功基準の中で、正しい位置にいられること」による安心に魅了されているだけかもしれない。


本当に自分が決めたことなのか

このように、僕らが「欲しい」と思って一生懸命努力しているものの正体を考えてみる。

「節約を頑張る」
「スキルを身につける」
「物分かりのいい人でいる」
「フォロワーを増やす」

これらを求めて走り続ける自分を一度疑ってみる。なぜそれを求めているのか。本当に手にしたいのか。冷静に問うてみると、単に「周りが認めてくれる」という安心感を得たいだけかもしれない。

誤解のないように言っておくと、「努力すること」自体が悪いわけではない。ただ、その努力が本当に自分の望んだものなのか、考えたことはあるだろうか。

気づかないうちに「努力の方向」さえも誰か(空気)に決められてしまう。そしてそれはある種避けられないことだろう。でも、問いかけることはいつでもできる。

「この道は、自分にとって本当に大事なものなのだろうか」

おもしろいことに、この問いを立てると往々にして誰かの顔が浮かぶ。その価値観をジャッジしている誰かの顔が。しかも、それは意外な人物だったりする。もう影響されていないと思っていた人や、とうの昔に関係を清算したはずの人が、突然浮かんでくる。これはとてもいいサインだ。自分の価値観が誰の影響を受けているのかを教えてくれる。

「自分らしく生きる」も空気

「自分の価値観を問う」という話をすると、多くの人は「自分らしく生きましょう!」という"わかりやすいメッセージ"を期待する。近いのだが、僕が言いたいのはそうじゃない。

「自分らしく生きましょう」というフレーズそれ自体が、一つの空気だ。SNSを見渡せば分かる。「自由に」「自分らしく」「楽に」「自然に」。これらの言葉を掲げる人々がたくさんいて、スローライフ的な何かを謳えば誰かが承認してくれる。

つまり、「自分らしく生きる」という生き方すら、また一つの決められた型、新しい空気になっているということだ。

ここまで読んで期待させたかもしれない。「周りの空気に流されるな」という否定の後に、「自分らしく生きればいい」というわかりやすい解決策が示されるのを。

そこには罠がある。「新しい答えを求めて、また別の安心できる場所に逃げ込もうとする。」その姿勢自体が、この戦いを永遠のものにしている。

結局のところ、「自分らしく生きましょう」という新しい村に移住しただけで、今度はその村の空気に支配される。誰かが用意してくれた安心な答えを求めるという構図は、何も変わっていない。

この事実に、僕は絶望する。そして、あなたにも絶望してほしい。

空気を無視して生きることはできない

では、すべての空気から逃れて生きればいいのか。 それも違う。それは不可能だ。

どこで生きても、何を選んでも「価値観の空気」は存在している。日本に生まれ、日本語を使い、スマホを持ち、スーパーで買い物をする。その時点で、僕たちは既に様々な空気の影響下にある。

空気の影響から完全に自由になることは、この世界では不可能だ。だからこそ「空気が存在すること」を認めた上で、どう付き合っていくかが現実的な対処となる。

空気に無自覚なままでは、ただ流されるだけ。自分が影響を受けていることにも気づかないまま、『自分ではない、村から期待される誰か』として必死に生きることになる。

でも、僕たちは空気に気づくことはできる。

暗黙の空気に気づく方法

では、どうやって空気に気づくことができるのか。
そのサインとなるのが「不安」だ。

不安が訪れた時こそ、最大のチャンス。

なのに僕たちは、その大切な『不安』を真っ先に消そうとしてしまう。貯金残高を増やしたり、いいね数を集めたり、資格をとったり。「すごいね、さすがだね、ちゃんとしてるね!」と周りが言ってくれる方法で。

空気に従えば安心を得られる。「あぁ、私は間違っていないんだ」と。

でもその安心と引き換えに、自分はどこかへ消えていく。みんなと同じ空気を共有できる"誰か"になることで、僕らは自分を手放してしまう。

つまり、不安とは『自分である』ということのサインなのだ。

自分を生きるということ

不安は悪いものではない。むしろそれは自分を生きているという証だ。

貯金残高を心配に思うとき。その不安に駆られて残高を増やすのではなく、立ち止まってみる。「なぜ私は貯金を必要だと思うのだろう?」「本当に、今の私に必要なのは貯金なのだろうか?」

キャリアの不安を感じるとき。周りと比べて出遅れているのではないか、このままで大丈夫なのだろうか。でもその不安は「私にとっての仕事とは、人生とは何か」を問い直すチャンス。収入や昇進、肩書きではない、自分なりの道を見つけるきっかけになる。

人間関係の不安を感じるとき。もっと人当たりよく、場の空気を読める人間じゃないとやばい!と思う。でもその不安は「自分はどんな関係性を望んでいるのか」「本当に付き合いたい人は誰なのか」を教えてくれる。取り繕わなくていい関係を露にしてくれる。それは一人もいないかもしれないが、少なくとも自分が見えてくる。

このように不安は、周りの期待とは関係のない自分を導いてくれるきっかけになる。この道を進めば不安は続く。あなたの選択を、周りの空気は理解してくれないかもしれない。

でも、それこそが自分を生きているということ。自分を生きるということは、不安と共に歩むということなのだ。

考えてみてほしい。空気に完璧に順応し、一切の不安もない人生を。それは"あなた"である必要のない人生ではないだろうか。

あなたは安心するために生まれてきたのだろうか。空虚な安心のために人生を捧げることは、本当にあなたの望む生き方だろうか。

周りからの承認は得られるかもしれない。でも自分が誰なのかもわからなくなっていく、その方がよっぽど僕には怖い。

不安は決して悪いものじゃない。 それは、あなたがまだあなたとして生きようとしている証。 弱さの現れではなく、自分の人生と真摯に向き合おうとしている印。

僕らは試されている。
不安を消そうと、安心と引き換えに自分を殺して生きるか。
それとも「不安があることは別に問題じゃない」と、不安と一緒にやっていける人生を歩むか。

不安は消えない。 でもその不安こそ、あなたが本当のあなたでいられる確かな証なのだ。



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