現代にして、最強の拠り所「お金」
近代で神は死んだ。
多くの人の宗教心は実質なくなってしまった。
現代、日本において地域コミュニティはほぼ崩壊。
「社員は家族」と謳う村社会的な会社も減少傾向。例)ゾス!コッカラッス!
権力や特定コミュニティからの自由を手にしたように見えて、自分の包含する"大なるもの"との繋がりは消えた。
繋がりが失われると生活や未来の不確定度合いは強まっていく。
例)
・ピンチのとき、親戚が面倒を見てくれる
・地域の誰かが仕事をくれる
・近所のおばちゃんが野菜をくれる。etc
その結果、生き抜くための「拠り所」として残ったのはお金。
お金があれば、親戚の人と疎遠でも生きていける。地域のおばちゃんが野菜や米をくれなくても生きていける。
「個人の自由」が尊重された現代は、個人化した時代だ。集団の面倒な慣習から解放された時代。
先に述べたように、個人化は不安定さとセットでもある。個人化した現代、不確定な未来への対策として一番わかりやすくて便利なのがお金。
とにかくお金がものを言う。ピンチのとき、自分を救ってくれるのは地域のおばちゃんでも、村長でも、親戚でもなく、昔の友達でもなく、お金。
お金は自由のためのツールでありながら、唯一と言っていいほどの生存ツールになってしまった。
今を生きる多くの人は「お金持ちになりたい!」というより、不安から逃れるために一生懸命頑張るってのが実情だと思う。
神(宗教)や地域、会社から自由になろうとした結果、一つのシステム(お金)に依存することなってしまい、結局また奴隷。皮肉。
金儲けを非難する気は全くない。お金儲けが得意な人はそれでいいと思う。場所も思想も人間関係もお金を駆使して自由に移動して生きればいい。
ただ、資本主義においては彼らお金持ちが崇められ、発言権を持ち、人格的にも優れた人とみなされる。そんな「人格者」である彼らがお金による効能を喧伝する。自分らはそれで成り上がったのだから当然そう言う。喧伝は善意ですらある。
ただ、「お金の最大化による人生戦略」を普遍的法則のように語り過ぎではないか。それが一般論のように広まり、本来「村」的に生きた方がいい人間も"競争"の奴隷レースに巻き込まれてしまった。
友達との繋がり、家族との繋がり、近所の人との繋がり、会社の同僚・上司との繋がりも決して悪くない。一見不自由に見える環境のほうが、その人にとって自由度高く生きられることもある。
自分に合うのはどれくらいの塩梅なのか、自分にとっての解を見つけていきたい。