またはじめる、ということ
最近、またたばこを喫うようになった。10年ぶりくらい?の再開。
きっかけは、ここ最近よく遊ぶ友達が喫っていて、一緒にいる時に「もらいたばこ」をするようになり、そのままずるずるとなんとなく。
たばこを喫うひとと一緒に過ごしていると、いつもの行動の中に「たばこのための時間・場所」を組み込む必要が出てくる。
わたしは以前の経験があったのでだいたいはわかっている。でも、その少しの時間感覚のズレみたいなものが次第に面倒くさくなったんだと思う。一緒にいるときは「喫うひと」になった方がお互い楽だ。
そうしてる間にもらってばかりもあれだし、じゃあ買って持って行くか、になり、ひとりでいるときも、持ってるから喫ってみようか、になる。
そしてある休みの日。いいお天気。
たばこと、うすくつくったコーヒーを持ってベランダに出た。あとiPhone。音楽を聴きながらボサーっとするか、と思ったのだ。
ここで以前たばこを喫っていた時にはなかったスマホというものが出てくる。たばこをまた始めてみてから気づいたのは、「あれ、手が忙しくて両方は無理だ」ってこと。
出したりしまったり、片手で出来ない動作が両手それぞれあって、そうこうしてる間にたばこは灰になってゆく。
ずっと続けているひとは、難なく両手を華麗に操ってスマートにこなすのだろうけど、ブランクがあるわたしからすると、たばこを喫うことも「楽しみ」のひとつなので、ちょっと邪魔かなあ、なんて思ってしまう。
ということで画面を見るのはやめて、せいぜい音楽聴くくらいにして、ベランダでぼんやりしていると、これがなんだか、すごくいい。
もちろん、たばこがなくたってぼんやりすることはできる。てゆーかわたしはかなり「ぼんやり寄り」の人間だ。でも、やっぱりいつの間にか「ぼんやり時間」の何割かはスマホに取られていたんだな、と改めて気づいたのだった。しかもただ部屋でぼんやりしているとき、わざわざベランダに出ることもない。
そういえば、わたしがたばこをやめたのは、ざっくり言うと「たばこを喫うという行為に縛られるじぶん」が嫌になってしまったからだった。でも今、たばこを喫うことで、別のものから自由になっている。なんなんだろうね、これは。
ついでに言うと、わたしはとても「この時間」が好きだったなあってこと。酔っぱらった帰り道、わざと公園を通ったり、人がたくさん集まる場所をちょっと抜け出したり。
夏フェスなんかに行っても、いちばん後ろのはしっこの喫煙エリアで芝生にねっころがっていつまでもだらだら話したり、ディズニーランドに行っても喫煙所で話してるうちにずいぶん真面目な話になっちゃったり、そういういわゆる「無駄な時間」のこと。
外で喫うたばこっておいしいんだよなーとか、のみものはこういうのがいい、とか、あーもうそろそろ気持ちが悪くなる、とか、なんだか色々と思い出しては楽しんでいる。
「不自由」なことっていつでもあるけど、どんな「不自由」を選ぶのか、そもそも選んでそうしているのか、なんとなくそうなってしまっているのか。
たばこなんて、また嫌になったらやめればいいけど、じゃあやめられない何かの不自由さと向き合うとき、どう受けとめればいいのか、そこにもなにか、楽しさはあるのか。「不自由だから」楽しいってことも、あるのか。
なんだかそういう色々を考えたりしながら、わたしは今日もベランダでボサーっとたばこを喫っている。空とか雲とか、蝶々がふたりなかよく遊んでいるのを眺めながら。