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夢幻 ~自己防衛本能

この想いとは裏腹に「そこにいることを許されない」自分
夢 希望 努力などと言うものは絵空事にしか思えない「疲れ」
すぐそばにそれはあるのに決して手にできない景色
これから何を支えにこの世界を歩いて行けばいいのか・・・
考えれば考えるほど胸が抉られるような悩ましさに苛まれる日々

とはいえ人はなんとなく少しずつその環境にも慣れるものなのだろう
もちろん心のモヤモヤが晴れることはないのだが・・・
冷静になってくると「この出来事は自分に何を伝えようとしているのか?」
そんな視点が湧き上がってくるから不思議だ
自己防衛本能なのかもしれない
人はきっと自分の無力を指示し続けることはできないのではないだろうか
一線を越え「狂気」へ向かう人もいるのもまた事実ではあるが・・・
それでも心がどうあろうと身体は生き続けようとする
その身体に引かれて心も立ち直るようにできているのだと思う
少なくとも自分はそうだったのだろう

見方を変えれば自分はヒーローになれのだ
「悲劇のヒーロー」ではあるが「ヒーロー」には違いない
なまじ レギュラーなのか補欠なのかわからない立ち位置よりは
「立場」がはっきりした分だけ肩の力が抜けプレッシャーからは解放された
何が何でも!ではなく「今できる野球のやり方」に目が向くようになり
例えばバッティングピッチャ―をやってみたり
レギュラー陣のシートバッティング時の守備係が楽しくなっている自分
バッティングピッチャーだから打たれて良いのだし
守備でミスしてもがそれがかえってバッターの励みになっていたりする
なんとなくだが「誰かの気持ちを上げられている自分」を発見できて
楽に野球に取り組めている自分に「おまえOKじゃん!」と思えるのだ

また小学生時代からの「野球で外されてきた」経験は
立ち位置の弱い人達の想いを嫌というぐらい思えるようになったのも事実だ
それは歳を重ねた今でも生きている
弱い立場が「想う事」は想像できるしそこに安っぽい「同情」もない
無用な干渉はしないしその人が必要であればただただ伴走はできる

メンタルも鍛えられた
「要らないやつ」がやってゆくためにどう在れば自我崩壊せずにいられるか
何を支えとしてゆくのか
そんなこともいつのまにか学習していた

それに世間で言われるありふれた言葉
「懸命にやる者を誰かが必ず見ている」を実感もできた
野球を引退してから 高校3年の「進路」を考えるとき
野球部長(先生)から声がかかった
「お前が3年間気張ってきたことを俺は見てきた
お前は進学しないと聞いたからその話を〇〇会社(結構な大手)に伝えたら
是非お前に会ってみたいって言ってたよ どうだ?」
卒業したら「この町を出る」と決めていた自分なので
結論としてはその話に乗ることはなかったが なんともありがたい話だった

時に人は「思ってもいなかった状況」に出くわす
想いを込めてやってきたことならそれが崩れていくときのいたたまれなさ
それは筆舌に尽くしがたい傷みを伴う
でも人はそこでは終わらないのだ
終わりにしなければその先にストーリーは展開してゆくのだ
そのストーリーはきっと己を救おうとするストーリーになる
自然と自分でそうするように仕向けるものだ
自分でそれを邪魔しない限りはだが
成り行きに任せそこに乗ってみると
そこにあったのに見えていなかったものが見えてくることがある
その見えてきたものは なんと自分の価値を高めてくれるもの
そういうことは 実は足元にころがっていたりするものだ
それを探そうとする者だけにわかることである







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