今日の引用 2021.3.29. フェミニズム
"たとえばこれが「うちの奥さんはアメリカに来てからホームレスの問題に興味を持って、毎日ホームレスのために給食センターで奉仕活動をし、週に二回はヘブライ語の教室に通って、ゆくゆくはヘブライ語文学を日本に紹介しょうと思っているようです」というような状況であると、みんなはそれで納得してしまうことになる。「それは素晴らしいことだ。あなたはそのような奥さんを持っていることを誇りにしなくてはいけない」と言われるだろう(もちろんホームレスを助け、ヘブライ文学を勉強することに対して、僕は何の異論も持っていないし、そういうのは立派なことだと思うわけだけど…あくまでこれは例です)。僕の印象でいくと、どうもアメリカの女の人はだいたい「自分はこういうことをしています」と口に出してはっきり言えて、誰もがそれで「なるほど」といちおう納得してしまうような形のある何かをひとつぐらいはきちんと用意しているようだ。僕はそういうのを個人的にポリティカリー・コレクト・トークンと呼んでいる。
彼女たちの見地から言えば、僕は誰か秘書を雇って、僕の仕事に関する用事はその秘書にまかせ、うちの奥さんは自分のキャリアを積むための仕事を、あるいは何か自発的に自分の中から出てきたヴォランティアのような作業をするべきなのだということになる。そうすることによって、女性は夫の影から抜け出して、初めて精神的な自立を得ることができるはずだと。"
やがて哀しき外国語|村上春樹 p155
アメリカで浸透しているフェミニズムの話。この本が書かれたのは90年代の初頭だから、アメリカのフェミニズムはそうとう進んでいることがわかる。この文の前段階として、村上春樹がアメリカで「奥さんは何されているのですか?」とよく聞かれるという話があった。アメリカ人の女性は「主婦」とか「夫の仕事を手伝っている」とか言っても納得してくれないそうだ。というか、それだけではないという前提が彼女らの中にはある。アメリカの映画やドラマを見ていても「働きに出ていない女性」をあまり目にしたことがない。「奥さんも自発的な何かをやっていて当然」という意識が、アメリカ人の中にはあるようだ。
いまいちピンとこない人も、男女逆だったらよくわかる話だろう。「旦那さんは何をなさっているんですか?」とか「息子さんは何をなさっているですか?」と聞かれて、主夫・手伝いと答えるのはきまりが悪いときがある。それだけじゃないだろ、と相手が食い下がってくることもある。それがアメリカでは女性も同じというだけ。「主婦」「夫の仕事の手伝い」という回答は、アメリカではなかなか通じないそうだ。
日本でも、現代は男女共働きが主流になった。でもそれは男女平等、フェミニズム的な観点からではなく、主に貧困が理由となっている。社会体制はいまでも女性に不利にできているようだし、経済的な理由で男性に頼る必要がなければ、婚姻も出生も増えていたかもしれない。女性の「金持ちの男性と結婚したい」という願望は、自分が稼げていたらもっとそれ以外の面を重視したかもしれない。少なくとも日本で「主婦」「夫の仕事の手伝い」という回答が通じないことはない。日本は女性も外で働かざるを得なくなっただけで、女性の権利意識向上による精神的自立の結果、共働きが進んでいるわけではないから。
このあと村上春樹は「主婦や夫の手伝いという生き方があっても、それはそれでいいでしょ」というようなことを言っている。仮に今の自分の立場が夫婦逆であっても、自分は満足して生きられるというように。今の自分がまさにそれで、「あれをやってます」「これをやってます」と胸を張って言える肩書きはない。お金のことを言えば、奥さんの収入でうちの家計は回っている。僕自身は信念をかけて取り組んでいる、社会的意義のある奉仕活動のようなものも存在しない。僕は奥さんに対して、自分が十分に応えられているのかという自問自答をつねづね行っているけれど、今のこの生き方自体には満足しており、楽しくやってます。精神的な自立は、まああるだろう。奥さんに依存しているつもりはない。
それにしても、アメリカと日本ではおそらく、夫婦や家族という共同体のとらえかたそのものが違うのではないか。というかそれ以前に、個人という概念のとらえかた自体違う。同じ家族にいても個人は独立しており、それぞれの人生を歩んでいる。運命共同体でもなければ、離婚も簡単にする、子供は早々に自立する。まさにパートナーといった意味合いが強い。日本みたいに精神ズブズブな夫婦・家族関係は珍しいんじゃないかな。