アナログレコードを再生するとき、思い出すこと
店にレコード環境が整ったので、売り物のレコードを磨いては片っ端から再生している。LPが100枚以上あるけれど、知っている曲は少ない。ビートルズのLet it beとかならさすがに知っており、まずはそのへんから試聴しているところ。
店を始めるという思いもよらないきっかけで、アナログレコードを聴くことになった。今までレコードに全く興味がなかったかと言えば嘘になるが、まさか10kg近いプレーヤーを買ってまで聴くことになるとは。
音楽にうとい僕にとって、アナログレコードはずっと遠い存在だった。どれぐらい遠いかというと、アナログレコードについてまず真っ先に思い出すのが、村上春樹だというぐらい遠い。ミュージシャンではなく小説家。
村上春樹はレコード愛好家として読者の間で有名だ。ときどき放送されている村上RADIOには、自身のコレクションであるレコードを持ってきてかけている。他にもアメリカのどこどこのレコード屋でめずらしいものを見つけ、値切ったけれど負けてくれなかったとか、レコードを磨くことが趣味だとか、レコードはきれいに磨けば磨くほど音が良くなってかわいいなど、ラジオ内でレコード愛を惜しみなく吐露している。
彼の小説には、音楽がよく登場する。ときどきレコードの描写も出てくる。「国境の南、太陽の西」では、少年時代のハジメと島本さんがナット・キング・コールの「国境の南」をレコードプレーヤーで再生している。その描写は儀式さながらで、「レコードとはこんなにも慎重に扱うべきなのか」という印象を抱いた。
レコードを扱うのは島本さんの役だった。レコードをジャケットから取り出し、溝に指を触れないように両手でターンテーブルに載せ、小さな刷毛でカートリッジのごみを払ってから、レコード盤にゆっくりと針をおろした。レコードが終わると、そこにはほこり取りのスプレーをかけ、フェルトの布で拭いた。そしてレコードをジャケットにしまい、棚のもとあった場所に戻した。彼女の父親に教えこまれたそんな一連の作業を、ひとつひとつおそろしく真剣な顔つきで実行した。目を細め、息さへひそめていた。僕はいつもソファーに腰掛けて、彼女のそのような仕草をじっと眺めていた。レコードを棚に戻してしまうと。島本さんはやっと僕の方を向いていつものように小さく微笑んだ。そのたびに僕は思ったものだった。彼女が扱っていたのはただのレコード盤ではなく、ガラス瓶の中に入れられた誰かの脆い塊のようなものではなかったのだろうか。
ちなみにナット・キング・コールが歌う「国境の南」なんてレコードは実在しないらしい。
他にも村上春樹ではないが、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」にレコードが出てくる場面があった。
「あのさ、君のためにレコードを一枚買ってきたんだ。でも途中で落っことして粉々になっちまった」。そしてコートのポケットからレコードのかけらを出して見せた。「わりに酔っぱらってたもんだからさ」
「そのかけらをちょうだい」とフィービーは言った。「しまっておくから」。彼女は僕の手の中にあるかけらをとって、ナイトテーブルの引き出しに入れた。そういうのって、参っちゃうよね。
ホールデンは妹の誕生日プレゼントにレコードを買うが、落として割ってしまう。けれど妹はその割れた破片を受け取り、大切に仕舞う。ここでもレコードがただ音楽が記録された円盤というだけではない、なにか特別な思いが込められた物のように描かれている。
こういう表現に用いられる媒体って、やはりレコードがしっくりくる。デジタル音源のCDや、音楽データを入れたiPod、ストリーミングのSpotifyでやられてもちょっと味気ない。「バイオーグ・トリニティ」というマンガで、主人公の藤井が誕生日プレゼントとして芙三歩に高音質の曲が入ったSDカードをあげるというシーンがあった。これを読んだとき僕は「嬉しいか?」と思ってしまった。
レコード音源にはデジタルに変換されない暖かみが残っているなどと聞くが、僕は音を聴いてもよくわからない。しかしそれでもアナログであるということが、小説における生きた表現に厚みを増すように思える。木造の家屋にぬくもりをみいだすように、手書きの手紙から息遣いを読み取るように、手料理に愛情を感じるように、アナログ盤は物語上で有機的に取り扱われている。その暖かみだったりは、ただの思い込みかもしれない。
でも僕らの感情にとっては、思い込みこそが重要だったりする。情緒はセオリーや根拠を必要としない。アナログレコードというものは、音楽以外のそういった個人の思い込みとか、思い出とか、感情がいっぱいに詰まった物なんじゃないか。そんな風に僕は思っている。
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