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自分のオタクが長いのでいったん全部書く

 幼稚園児の頃、夕方テレビに映った紫色のロボット(人造人間)は、今考えるとその後の人生の軸をずらした、最初のひと押しだったのかもしれない。エヴァをあの時間に放送していたテレビ東京が悪い。

 小学生の頃は小児喘息で学校を休みがちだったことと、父母がオタク第一世代で家がマンガだらけだったことが合体し、学校を休んだ日は家で一日中マンガを読んでいた。水木しげる・白土三平・手塚治虫・石ノ森章太郎・藤子不二雄・ちばてつや・諸星大二郎・萩尾望都……。結果として目もめちゃくちゃ悪くなった。ちなみにマンガに関してはこの後家を出るまで「最新の話題作を親が買ってくる」という環境だったため、中学以降自分の興味は同人誌に向かった。

 アニメは宮崎アニメをたくさん観た。ここでジブリ映画はもちろん『カリ城』と『名探偵ホームズ』と『ルパン三世(1期)』も入れてくるのがオタクの親だなあと今なら思う。あとはホルスもよく観た。結局宮崎アニメは大人になってもずっと新作を観ることになり、宮崎駿について考え続けることになる。大人になって『風立ちぬ』を観た時に書いたのがこれ。書いた当時たくさん読んでもらえて嬉しかった。

 そして追い打ちかのように「ポケモン赤・緑」が世に解き放たれ、日本中の子どもたちがバックライトのない極小の白黒画面を凝視することになった。おれの世代の目の悪さには絶対ゲームボーイが作用していると思う(その後出たゲームボーイカラーはさらに暗かった)。

 高学年になるとマンガも好きだがコンピュータも好きになった。親が広告系の仕事をしてい(るオタクだっ)たので家にコンピュータがあり、古いMacをお下がりにもらって使っていた。文章も好きだったので家にあったMac雑誌も読み漁った。特に好きだったのはコンピュータの歴史や、コンピュータの黎明期における開発者たちの奮闘記。初代Macintoshの関係者にはなぜか、

「ウォズの魔法使い、スティーブ・ウォズニアック」
「リソースの魔術師、ビル・アトキンソン」
「Macintoshの名付け親、ジェフ・ラスキン」
「"3人目"のスティーブ、スティーブ・キャプス」

といった、マジック:ザ・キャザリングの強いキャラみたいな二つ名がついておりそれもアツかった。ちなみにリソースの魔術師ことビル・アトキンソンは後年Appleを退社して鉱物写真家に転身した。どういう路線変更なんだよ。

 中学生になると秋葉原で古いMacを買ってきてOSを入れ直したり、ニコイチしたり、そういう遊びをするようになった。秋葉原に行くと当然の流れとしてオンラインゲームや美少女ゲームや同人ゲームに出会うため、そりゃあやりたい。憧れはしたものの家のPCはMacなのでまったく動かないため、色々調べて中古のパーツで3万円ぐらいのWindows PCを組んだ。

2006年撮影。ハルヒの背景に古炉奈

 CPUはCeleron 1GHz(Tualatin)。すでに世の中はPentium 4かCore Duoに賑わっていたので超型落ちだった。『MELTY BLOOD Re:Act』が動く推奨動作要件で組んだ記憶がある。おれはどうしてもメルブラがしたかったんだ。このPCが手に入ったことに歓喜したおれは、秋葉原ホワイトキャンバスに脚繁く通った。友人・Nと眠気にやられながら徹夜で『東方花映塚』も遊んだ。ちなみにこの当時TYPE-MOONは商業化しており、月姫にはもうプレミアがついていた。

 また、中学生の頃に再放送で『電脳コイル』を観たことはすごく衝撃的な出来事だった。ハイビジョンの映像美、かわいさを振りまかないキャラクター、示される近未来の様子、子どもの描き方、クールな設定! また、宮崎駿が絶対描かない、体系の異なる現代的な少女観にはいろんなことを考えさせられた。終盤に一瞬匂わされるヤサコの過去の描写には本当にびっくりしたし、数少ない描写でキャラクターが立体的になる技術にも興奮した。思えば、「評したい(違いを明らかにしたい)」と初めて思わされた作品だったかもしれない。

 音楽はYMOをよく聴いた。YMOはオリジナルアルバムよりもライブテイクの録音の方が多いんじゃないか?というぐらいのライブバンドで、過去の雑誌などを読みながら「このツアーのどこの回では坂本がooの演奏を間違える」とか、そういうことをめちゃくちゃ覚えた。音楽の探究をYMOから始めるとはっぴいえんどを聴くことになり、歌謡曲を聴くことにもなったので、今振り返ると入口としてすごくよかった。一番好きなアルバムは『B.G.M』。

 インターネットでよく聴いていたのはMOSAIC.WAVだった。当時MOSAIC.WAVは試聴用の音源をWEBサイトに置いていて、それを全部ダウンロードして聴いていた。インターネットがもっとコンパクトで、いろんなものが手の届きそうな場所にある時代だった。当時のWEBサイトはまだ生きており、今でも時々見てしまう。

 高校生になると携帯電話を渡された(ここまで、友達との連絡も家電か公衆電話の時代だ)。そしてApple製品の専門店でバイトを始めた。MacBookとMac miniのメモリ交換をたくさんやった。『空の境界』の劇場公開が始まったので、Nとテアトル新宿に観に行った。映像化不可能と言われていた作品が素晴らしい形で映像化していたから驚いた。

2007年撮影。文庫化もこの頃だ

 以後7章すべてNと劇場に観に行った。ちなみにNは中学の途中で転校してしまったのだが、学校が別になっても映画を観るために連絡を取って一緒に観に行った。Nは予備校通いの受験生で大変そうだった。おれは何も考えていなかったのでめちゃくちゃ遊びに誘ったが、今思うと悪いことをした。ただ結局Nは大学を中退したので、やっぱり今となっては良し悪しはわからない。

 2008年、高校2年生の頃に日本でiPhone 3Gが出た。発売日に買った。そこからずっとiPhoneを使っている。それまで使っていたのはW-ZERO3[es]。メモリが貧弱なのとなんか変なキャッシュが溜まるので数ヶ月に一度初期化していたが、中に入っていたWindows CEというOS自体は結構面白くて、コミケカタログとかを入れて遊んでいた。コミケはこの頃(C68)からコロナ直前まで、ほぼ毎回・全日行っていた。また、この頃一眼レフも買った。写真は今でも趣味・仕事いずれもで撮っている。

 月姫のリメイクが発表されたのも確かこの頃だ。「じゃあ、プレミア価格がついたやつを買わずにリメイクを買おう!」と思った。リメイクは7年経っても出ず、結局後に初任給でプレミアの『月箱』を買った。リメイクは2021年に出た。

 2009年、幼稚園から高校まで居た一貫校を出て、大学では社会学と演劇で悩んだが演劇学科に入った。物語と人とメディアの作用に興味があった。それはつまり、感情が人の身体とどのように結びつくのか、同空間にいる他者はそれにどんな反応を返すのかということで、拡大すればそれはメディアの作用であり、演劇は世界最古のメディアである。こんなことを書きつつ全然行かなかった。

 大学生になると高校の終わりにふわっと始めたマジック:ザ・ギャザリングを、秋葉原で遊ぶようになった。この頃秋葉原で友人ができたのは嬉しかった。スタンダードを本格的に遊び出したのはM10・ゼンディカーあたり。ワールドウェイクでスタンダードが終わってしまった(ジェイスいっぱい引いて先に出した方の勝ち!になったのを機にレガシーを始めた。レガシー環境はCTGに炎渦竜巻が入り始めた頃。AMCもGCCも行った。あの頃僕にマジックを教えてくれた人は今、秋葉原でカード屋さんをやっている。自分も自分で今もプレイヤーを続けているとは、当時は思わなかった。

2011年撮影。CTTを組もうとしている

 ひとまずこうして振り返ると、自分は記録が好きなのだと思う。自分が記録することも、記録を読むことも好きだ。あと、何も手放せないたちだ。書いてあることは全部自分の人生に地続きで、買ったコンピュータとかも全部覚えている。当然のことなんだけれど、上に書いた全てのことが今の自分の人生に地続きである。

まだ後10年ある。いずれ後編を書き2025年まで辿り着きたい。

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