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論文のまとめを「生成AI」に任せて失われたもの
3年前に大学院に入って、「論文を読む」ということを覚えました。
そして今では「論文を読む」ということがひとつの習慣のようになりました。その論文をまとめて要約して、noteの記事にするようになりました。
▽▽▽
・・・しかし、最近「論文をまとめる意味」について、疑問に思う自分が現れてきました。そう、「生成AIの登場」によって、です。
どういうことかというと、生成AIを使うことで「誰でも論文は読めるようになったし、AIがまとめてくれるようになった」→「では自分がnoteに論文をまとめる意味はなんなのか?」というお話です。
中二病みたいな、自分の価値ってなんだみたいな話ですが、今日はこのテーマで書いてみたいと思います。よろしければお付き合いくださいませ。
「論文」は、なんとなくを確信に変える
見慣れぬ論文の世界は、「きっとそうなんじゃないかな?」となんとなく思っていることを、研究者が実際に検証しています。
たとえば「目標設定って大事」とか「振り返りって大事」、あるいは「ポジティブな人の周りは明るい雰囲気になる」みたいなお話。そうだよなあ、と思うものが、「論文」という形でまとめると、その権威性からでしょうか、急に説得力が増し増しになります。
そして、「なんとなくがやっぱそうだよね(確信)になる感覚」を覚えます。すると、それらの知見が、自らの言動の指針になります(たとえば、やっぱポジティブな姿勢大事だよねとか、フィードバック大事だよね、みたいなイメージ)。
「論文」は誰でも読めるようになった
そんな「論文」を読んで、自分なりに解釈して、まとめてきました。
その数は、約200本ほどになりました。(よろしければnoteマガジンご参照くださいませ)
正直、論文は、熟読するとけっこう骨が折れます。
忙しい日々で、論文を読む時間を捻出するのは、なかなか大変。
ただ、最近その論文の読み方が、変わってきたことに気づきます。
そう、「ChatGPTの登場」によって、です。
「論文の探し方」は、GoogleScholarを使って見つけて、英語論文ならDeePLを使うというプロセスは同じです。しかし「Paper Interpreter」というGPTsの論文を簡単に要約してくれるアプリが登場したことが、論文の読み方を変えました。
このPaper Interpreterに論文を入れたあと、「60点の詳しさです。100点でお願いします」→「60点の詳しさです。100点でお願いします」と2回ChatGPTにツッコミを入れると、かなり詳しく解説してくれるようになります。
人が「論文をまとめる」意味とは
Paper Interpreterで論文をすると、要約文はURLとして記録可能です(下記参照)。これを貼って記録しておけば、noteにまとめなくても、覚えておくこともできます。
たとえば、「リーダーの自己認識」に関する英語の論文について、上記のアプリに要約してもらった結果をURLにしたものがこちらです(↓)。
これを見ると、多くの人が何を言わんとしているかがわかると思います。そして、わかりやすい。誤字脱字もないし、ロジックも正確です。
よって今では、論文をまとめて記事にするのは、以下のようなステップに変更になりました。
<論文まとめnoteの作り方>
STEP1:「Paper Interpreter」 で要約し、全体像を把握する
STEP2:元論文をDeepLで翻訳し、論文全体を読む
STEP3:抜けているところがあればChatGPTにまとめを指示する
STEP4:ChatGPTがまとめた背景や概要、研究方法や結果のアウトプットを組み合わせながら記事にする
こうすることで、スピードはあがりました。ミスもなく、正確性も高まったと思います。
しかし、こうしたことを繰り返すと、ふと疑問が湧きます。
「自分が論文を読んで、まとめて、記事にすることの価値とは一体どこにあるのか?」という疑問です。
「生成AIに任せること」で失われたもの
生成AIを使ってまとめると、時間や労力はかからない。しかも正確。ラクちんです。
・・・ですが、なんだかモヤっとするのです。
このモヤモヤ感の正体を探した時、そのキーワードは「自分の介在価値を感じない」。言い換えると「自分の色が出せない」。こんな気持ちがあることに気づくのでした。
論文の文字情報を、生成AIは一定のルール、論理性・正確性に基づいて要約します。それは「正しさ」という価値においては、ある程度の安定感を持ったアウトプットを出してくれます。
じゃあ、それだけでいいじゃないかというと、どうやらそうでもよさそう。では、人間がわざわざ論文を読んで、記事にする意味とは、一体何か?
要約を読んでも「人は正しいことだけでは響かない」こともありそうです。
むしろ「バイアスありまくりの未完成なワタシが見てどう思ったか?」「バランスよく見られない自分がみて、どこに面白さを感じて、どう活かせると思ったのか?」。正しいだけではないこと、ここに人間の介在価値があるように思うのです。
専門家ではない人間が論文を読み、まとめるプロセスには、正しさは薄まったとしても代わりに「面白さ」が生まれます。
生成AIに要約させて、記事にするのは簡単。でも、温度がない。
人間が「論文を読んで、まとめて、記事にする」のは、「正しさと面白さのバランスを追求する」ことであり、そのアート性にこそ価値がある。大袈裟なようですが、そんなことを思うのでした。
そして何より、書いている私自身が、自分の脳内フィルターに落として、言葉を抽出するプロセスが、何より書き手である自分自身の成長にもつながる、そう信じたいのです。
もうすぐ日々続けているメルマガも4000号。
ウロウロしながら続けていますが、少しでも価値を届けられるように、精進したいと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!