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金門島と福建省

(55番)  2019年   11月
 
金門島(台湾)と福建省(中国)へ行ってきました。
台湾は5回目で中国は18回目の訪問です。
金門島へ行ってみたかったのです。今回は台湾から入るのではなく、中国から入るコースです。
福建省のアモイ、客家土楼、コロンス島等は9年前に行った事があり、再訪になりますが、その間に変化がいろいろとありました。
参加者は全員で7名でした。

今回のコース

1日目 11月7日
✈ アモイ航空で福建省の福州まで直行便(3時間半)
🏨 福州景城大酒店
 
2日目 11月8日 (22度)
🚝 高速鉄道 和諧号、最高速度292キロ(1時間10分)にて
武夷山へ日帰り観光

武夷山

黄崗山(2,158m)を中心とする山系の総称。
山水の名勝として有名で、黄山、桂林と並び中国人が一生に一度は訪れたいと思う場所の一つとされる。1999年に世界遺産に登録。
朱子学の創始者である朱熹(しゅき)は約50年間、武夷山に身を置き勉学に励んだ。
日本の思想家の新井白石や藤原惺窩(せいか)にも多大な影響を与えた。
 
天游峰景区(てんゆうほうけいく)
ここからの眺めは武夷山で最も美しいとされ、奇峰と清流の織りなす眺望は一幅の水彩画そのもの。階段も826段ある。
 
九曲渓下り(きゅうきょくけいくだり)
その風光明媚な様は、宋の名相の李綱が「武夷古洞天に36の峰あり、川が山々を貫き、九度曲がる」と詩に詠むほど。
筏の形がおもしろくて竹製の船首の部分が上に向かって反り上がっている。我々は椅子に座るのだが、すぐ下は川なので濡れないように足カバーをつけた。この辺は親切だと思う。
4曲り辺りの上を見上げると洞窟があって、そこは大昔の人の棺桶が置いてあった所。
現在はよそに移動してあるものの、少し木片が残っているらしい。
 
武夷宮景区(ぶいきゅうけいく)
武夷宮は武夷山の山神である武夷君を祀る武夷山最古の道教寺院。
 
宋街
宋時代(960年から1279年)の街の様子が再現してあって、カフェなどのお店が並んでいる。
 
大紅袍景区(だいこうぼうけいく)
この辺りは岩茶の産地で毎年春になると赤紫色の新芽が出て、遠くから見ると炎が燃えているように見えるらしい。育つにつれて深い緑色に変化する。
岩茶の原木が6本あり、樹齢は370年。2006年以降は茶葉を摘むのを止めた。
それまでは20gしか取れなくて、1gで1万元(約20万円)もしたとか。
言い伝えでは、天心寺の和尚がお茶の葉でとある貴人の病を治癒させたことから、皇帝がお礼に着ていた紅袍(皇帝専用の上着)をお茶の木にかぶせたところ、お茶の木が「赤色」に染まったのだとか。
 
🚝 高速鉄道にて福州へ戻る(1時間5分)
🏨 福州景城大酒店(連泊)
 
3日目 11月9日
🚌 福州市内観光
 
三坊七巷(さんぼうしちこう)
明時代や清時代に建てられた福州の建物が保存されており、建物博物館のようだ。3つの通りと7つの路地からなる。
 
開元寺(かいげんじ)
549年創建で31歳の空海が唐に渡って、最初に入った寺院。
第16回目の遣唐使船4艘は804年6月に長崎県平戸市を空海達一行を乗せ出航した。
途中、暴風雨に遭い、うち2艘は消息を断ち、空海の乗った第一船は34日間漂流したのち、現在の福州市から北へ約250キロに位置する海岸(赤岸鎮)へようやく辿りついた。
天台宗の開祖である最澄は第二船に乗っていて、予定の港に着いた。

空海達は、この後、赤岸鎮から追われるようにして福州の観察処置使の閻済美(えん せいび)の所へ向かった。
福州では、大使の藤原葛野麻呂が同船していたにも関わらず、国書も印符もないために一行は罪人扱いのまま上陸も許されず、船も閉め出され河畔の砂上で留め置かれてしまった。
ここで一行の命運を開いたのは、当時無名の留学生として一行に加わっていた空海が大使に代わって書いた上申書の文章の壮麗さであった。
現在でもその苦境を乗り越えた空海にあやかろうと、日本人も含め多くの人が開元寺を訪れる。日本人の寄進による空海の立像と座像と共に「空海入唐の地」の記念碑も立っている。
 
🚝 高速鉄道にて海のシルクロードの起点である泉州へ(1時間5分)
泉州は宋や元の時代に「海のシルクロード」の出発点として栄えた貿易港があった。
マルコ・ポーロの『東方見聞録』でも泉州の繁栄が讃えられている。
 
清浄寺(せいじょうじ)
1009年創建のモスク。
中国に現存する最古のイスラム建築でその風格を有している。
シリアのダマスカスにあるイスラム礼拝堂をモデルにして建立された。
鄭和(ていわ)も第5回目の航海の際、風が上手く吹くようにとお祈りに来た。鄭和も来たことがある場所に立つことができるなんて感激!

清淨寺

個人的には鄭和の大航海にとても興味がある。
鄭和は1371年に雲南省昆明市でイスラム教徒の家に生まれた。明の永楽帝のもと、宦官の最高職である大監として仕えた。
永楽帝が周辺諸国への積極的な使節の派遣を行うために、1405年6月、鄭和は南海船団の指揮をとることを命じられた。
この第1次航海から第7次航海(1433年)まで、東南アジア、インド、セイロン、アラビア半島やアフリカの東海岸まで航海した。
一説によるとコロンブスよりも60年も前にアメリカ大陸に到達したとも言われているが真偽のほどはいかに・・・
 
海外交通史博物館
中国で唯一の海事博物館で市内に新館と旧館の2ヶ所あり、貿易港・泉州の歴史を伝える資料が展示されている。コンクリートの近代的な建物だ。
東南アジア、琉球、インド、イスラム教各国など70か国との交易の歴史を豊富な資料をもとに記録、遺物が展示されている。
表紙は鄭和の船の模型。
 
イブン・バットゥータの銅像も立っていて、聞いたことのある名前なので気になった。調べてみると「史上最も偉大な旅行家の一人」で、モロッコ人でイスラム教徒である。1325年にメッカの巡礼からスタートして、1346年にこの泉州まで来た。
彼(1304~1377)は生涯にかけて44か国を周った。
 
🚝 高速鉄道にて秦寧へ(2時間40分)
駅の構内で出発を待っている間にKFCでソフトクリームを購入。
7元(120円)。コーンに竹炭が入っていて珍しく、ソフトクリーム自体もコーンも美味しかった。
 
🏨 秦寧大飯店
 
4日目 11月10日
🚌 泰寧観光
 
泰寧丹霞(たいねいたんか)
2010年に6カ所ある「中国丹霞」の一つとして世界遺産に登録された。
丹霞とは赤い堆積岩からなる切り立った断崖を特徴とするカルスト地形の事。中国の丹霞地形の中で最大規模を誇る
高さ100mを超す垂直に切り立った絶壁、無数の穴を持つ不思議な岩肌の巨岩、動物の形に似たユニークな奇岩の数々、泰寧丹霞の岩山は「中国丹霞」の中で典型的な特徴を持っている。

3年前に行ったシルクロード河西回廊の町にある張掖丹霞地貌(ちょうえきたんかちぼう)は地層のグラデーションが見事だったが、ここは、そういった景色ではなく、主に奇岩が並ぶ場所のようだ。

泰寧丹霞

泰寧古城散策
ここは一つの町になっていて、明代初期から清代末期までの民家や明代に建設された城壁などがそのまま残っている場所。町のはずれには小川が流れていて、飛び石を渡るのも楽しかった。
 
🚝 高速鉄道にてアモイへ(3時間15分)

中国の新幹線の切符(下部分はQRコードと乗車する人の名前が印字されているので半分のみ)
後で気が付いたが、日付が合っていない・・・

🏨 翔鷺国際大酒店(部屋数が1,525室もある巨大なホテルで、四角形をしており、中庭もかなり広い)
 
5日目 11月11日(28度)
🚌 南靖へ(2時間半)
 
客家(はっか)の田螺坑土楼(でんらこうどろう)群の見学
客家とはもともと黄河中下流域の中原に暮らしていた豪族で、戦乱を避けるため、南へ逃げてきたと人々のこと。先に住んでいた閩南人(びんなんじん)から見るとお客だったから、客家と呼ばれた。
土楼は要塞型の巨大集合住のことで、辺鄙な土地に暮らさなければならなかった為、自然災害や強盗、野生動物から身を守るために作られた。
 
5つの土楼が梅の花のように寄り添って建っている。中央に位置するのが、方形土楼で、その周りを円形土楼が囲んでいる。いずれも3階建てで5楼合わせると世帯数は39になる。
 
客家は東洋のユダヤ人とも言われ、有名な政治家や企業家など、世界中で活躍をした人が多い。台湾の李登輝、中国の鄧小平、タイのタク・シンなど。
2010年に行ったのは永定の土楼で、そちらと比べるとこちらは規模が大きい。

客家土楼

昼食に出てきたスープは「虎の尾」の根っこが使ってあり、風味はゴボウのような感じ。
 
🚌 アモイへ戻る(2時間半)
アモイ市内観光
 
集美学村(しゅうびがくそん)と陳嘉庚(ちん かこう)公園の見学
陳嘉庚(閩南語ではタン・カーキー)はゴム業で財をなし、華僑の実業家として胡文虎(タイガーバーム)と並び称された。
陳嘉庚の寄付金によって作られた広大な敷地を誇る学園地区。
中国東南地方の伝統的建築物や木々の緑、そして美しい海沿いの風景などが一体となり、風光明媚なエリア。
 
夕食には「仏跳醤(ぶっちょうしょう)」というスープが出た。
「あまりにも美味しそうな香りに修業僧ですら、お寺の塀を飛び越えて来る」という話が由来。アワビ、フカヒレ、ナマコなどの乾物を主体とする様々な高級食材を数日かけて調理する伝統的な高級スープである。確かに味に深みがあり、美味しかった。

仏跳醤

🏨 同上
 
6日目 11月12日(28度)
🚢 フェリーにて金門島日帰り観光へ(30分)

フェリーの乗船券(下部には乗船者名と右端はバーコードがあるので半分の大きさ)
これも日付が合っていない

時々、キナ臭いニュースが入って来る金門島へやっと行くことができた。
外国人に開放されたのが、1994年で、中国のビジネスマンが行けるようになったのは2002年の事。ここからは10kmも離れていないのに台湾本土からは270kmもある。

アモイのターミナルは今年の6月にリニュアルオープンされたばかりで、
広くてとても綺麗。行きは台湾のフェリー「マルコ・ポーロ号」で帰りは中国のフェリーに乗る。
出国や入国はすべて顔認証で行われ、すべてのシステムが空港と全く同じで本当に中国のIT化には驚かされる。
因みに寺院などのお賽銭もスマホで奉納することができるが、これは現在
日本でも同様で、取り入れている先進的なお寺さんもたまに見かける。
一つは四国のお遍路さんへ行った時のお寺さん。

到着後、すぐに観光へ

 馬山観測所
対岸の角嶼までわずか1,800mしか離れていなくて、金門と廈門間の距離が最も近い地点。戦時には対岸の海上活動を監視するための軍事要塞として使われた。
入口をくぐると、戦備坑道があり、坑道内には機銃トーチカ等の軍事施設がある。
テレサ・テンが大陸に向けて放送した録音所があってその時の写真も飾ってある。 

民族文化村
ここ出身の王氏が18棟の福建式の住宅を建てて村になったのがはじまり。
現在住人はほとんど移住してしまったが、この特色のある文化を維持するために国家が資金を出し、文化村として再建した。
18棟の昔ながらの住居が碁盤の目に綺麗にならんでおり、壁のいたることころに見事な動物の彫刻がされている。

民族文化村

水頭地区
ここは水頭埠頭に隣接しており、かつては金門とアモイの貿易の中心だった場所。
そのため、貿易を営んでいた人々が多くの洋館を建設した。海賊がよく襲ってきたので、偽物の家まで建てられていて面白い。
 
模範街
1924年、当時の金門県商會會長の傅錫琪氏が、地方紳士である翁同文氏とともに「この美しい通りを模範に足る街道にしよう」ということで「模範街」と命名したもの。
全長75mほどの短い通りではあるが、両側が赤レンガで統一されたデザインとなっている。
 
八二三戦史館
八二三砲戦は、1858年8月23日から10月5日にかけて金門島に対し中国が同島に侵攻すべく砲撃を行ったことにより起きた戦闘である。
実質的な戦闘は10月5日に終わったが、中国による砲撃は
1979年1月1日までの約21年間にわたって定期的に続けられた。
 
砲弾を利用した包丁の工場
中国本土から大砲がボンボン(474,910発)撃ち込まれたため、それを利用して作ってある。もとは砲弾の為に頑丈でとても丈夫だそう。
砲弾は円柱と先の尖った屋根のような部分でできている。それを開き、熱してトントンと叩いて形を整える。1発で大体20本程の包丁が出来上がる。
呉さんが作りながら、説明をしてくれた。もともとは呉さんのお父さんが始めたそうで、ご本人曰く「毛○○からの贈り物」だとか。
元々予定には入っていなく、急遽訪問することになったが、貴重な話を聞くことができて有意義であった。
 
呉さんの包丁」という日本人が撮った映画があり、工場併設のショップにそのポスターが貼ってあったので、見てみようと思う。
金門島から中国への砲弾は74,889発で、もちろん火薬も詰めてあったが、
ビラやお菓子、缶詰なども詰めた。
そのビラには「資本主義の国はこんなに豊かですよ、美味しいお菓子や缶詰もありますよ」というメッセージが込められていた。
中国のスルーガイドさんも子供の頃、空がピカッと光ると「あ、お菓子だ」と喜んで拾いに行ったそうだ。
 
金門島の人口は7万人で、戦時には軍隊が11万人も駐留していて、現在は3千人まで減っている。
金門島の鳥はキツツキ(ガイドさんの言葉)で早速一羽が芝生の上をチョロチョロしていた。色はベージュで体の半分後ろは縞模様がついている。
ひょっとして「ヤツガシラ」のことかも・・・

ここで、ある方の話を聞いたので、書き留めておきたい。 
「この命、義に捧ぐ」という本には、台湾を中国から守った日本人である根本博さん(根本中将)の事が書かれている。
終戦後に内モンゴルから帰国する際、日本人をソ連軍から守り、無事に帰国するのを手伝ったのが台湾の国民党軍で、その恩を忘れなかった忠義の人として有名だそうだ。
 
🚢 フェリーにてアモイへ戻る(30分)
🏨 同上
 
7日目 11月13日(30度)
🚌 アモイ市内観光
 
胡里山(こりさん)砲台
望帰台からは金門島が見える。
ドイツから購入したクルプという大砲があり1893年製で360度の方向に撃つことができた。全長は13.9mで、射程距離は16km。
 
南普陀寺(みなみふだじ)
唐時代に建設された仏教寺院で、1000年以上の歴史を誇る。総面積三万平方メートルという広大な敷地を持ち、天王殿、大雄宝殿、大悲殿、蔵経閣といずれも目を見張るような堂塔伽藍で構成されている。裏山には数多くの刻石があり、中でも清の僧侶が書いた高さ4メートル、幅3メートルの「佛」の題字は有名。

佛の文字

生憎、仏事が行われており、本殿まで近づくことができなくて残念。

 華僑博物館
1959年、華僑の陳嘉庚によって創建された。海外の華僑社会の歴史と現在の姿を、豊富な資料を使って詳しく紹介している。世界中のあらゆる国に存在する中華街の写真などが、各国比較で展示されている。現在、インドネシア500万人、日本60万人など、世界中に住んでいる。

🚢 フェリーにてコロンス島の観光へ (30分)

コロンス(鼓浪嶼)島はアモイ島の西南部に位置している。
面積は1.78平方キロメートルで、定住人口は2万人。毎年約1千万人以上の観光客がここを訪れる。
フェリーに乗り込むだけでも中国人観光客の席の取り合いで唖然。
島内ももちろん、国内の観光客でごった返していて、前回行った時はこれほどでもなかったような気がするが。

コロンス島には西南側に長年の浸食を受けて真ん中に大きな縦穴が開いている岩山があり、満ち潮の時岩に波がたたきつけると、まるで太鼓の響きのような音が聞こえたことから、明の時代から今の名で呼ばれるようになった。
島の先端には鄭成功の銅像があって、島を見守るように立っている。久しぶりに見たが、堂々としていて、カッコいい! 

この島が一般的に知られるようになったのは、明時代末期に鄭成功がここで反清抵抗軍の調練を行ってからで、清末の1902年には列強の租界地とされ、イギリス、アメリカ、フランス、日本、ドイツ、スペイン、ポルトガル、オランダなど13か国が領事館や病院、学校、教会などを建設したことから、租界地特有の豪華な洋風建築が島内のあちらこちらで見ることができる。 

鄭成功は明代末期から清代初期にかけて活躍した軍人、政治家で母親は
日本人。
長崎の平戸に生まれ、7歳の時に福建省に移り住んだ。奇しくも我々は成田を発って平戸の上空を経由して福建省の福州まで飛んだから、不思議な縁を感じた。明王朝の再興を図って清に抗戦したが、南京で大敗し、再起を期して台湾に向かい、当時台湾を支配していたオランダを追い払って、抵抗の拠点とした。

コロンス島

日光岩
日光岩は俗に「晃岩」と呼ばれ、1647年に鄭成功がここを訪れた時、ここの景色を見て、日本の"日光山"より美しいと、"晃"を崩して"日光岩"と改称したという伝えがある。
頂上には10分で登ることができて、そこからはコロンス島がぐるりと見渡すことができる。
 
ピアノ博物館
コロンス島出身の音楽家「胡友義」が個人で収集したピアノを寄贈して創設された中国発のピアノ博物館で、単位面積あたりのピアノの保有台数は中国一。
世界各国のクラッシクピアノが100台ほど展示されており、あまりの多さに目が回りそうに・・・
 
無形文化遺産の「南音」と「人形劇」の鑑賞
「南音」は福建省泉州を発祥地とする伝統的な音楽。
ガイドさんに案内された場所で座って待っていると時間になっても始まらず、他の部屋から音楽が聞こえてきたので、慌てて移動した。
 
使われる楽器は、琵琶、二弦、三弦、洞簫、拍版などで、歌詞は福建省南部の方言の閩南語(びんなんご)が用いられる。
起源は、304年西晋時代の内乱で中原地方から大規模な漢民族の移動が
あり、彼らが持ってきた農耕や紡績の技術により閩南地域の生活様式が大きく変わったことで誕生した。
その後、唐代、元代、明代を経て、音楽理論の整備が進み、南音は固有の音楽として社会に定着してきた。
新中国が成立した後は、1970年代後半から復興活動が始まった。
そして2009年10月1日、「南音」はユネスコの世界無形文化遺産に登録された。
 
「人形劇」は布袋木偶戯(ほていげき)と呼ばれるもので、セリフはなく音楽の伴奏のみ。
 
🚢 フェリーにてアモイへ戻る (5分-行きとは違う港)
🏨 同上
 
8日目 11月14日
✈ アモイ空港から帰国へ (3時間半)
 
待合室で出発を待っていると、民族衣装を着た軍団がゾロゾロ。
おまけに媽祖様(まそさま)まで担いで、エレベーターに乗って上にある
ラウンジへ行った。お付きの方も媽祖様の後ろについて歩いてきた。
飛行機に乗るのに、普通の恰好ではなく、民族衣装のままで女の人は髪まで結っていたので、目立つこと。媽祖様とは中国南部で信仰されている海の神様の事。
飛行機に乗るのではなく、空港へ来ただけかもしれない。
 
アモイ航空は初めて乗ったが、CAの人達も笑顔で親切だし、食事もおいしかった。
 
最後に金門島を含む台湾だけではなく、中国の人達がいつまでも平和に暮らせますように。
きっと呉さんも「習○○からの贈り物」は要らないはず・・・

写真は海外旅行50回目くらいで、きっぱりと止めたのでそれ以降は撮っておりません。 当時はフィルムだった為にどんどん増えてしまったから。
写真があった方が分かりやすいという声があって、旅行会社さんのパンフレットを引用させて頂いております。
旅行会社さんにはお礼申し上げます。

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