ナウル、キリバス、ツバル
(31番) 2015年 6月
ナウル、キリバスとツバルへ行ってきました。
目的はナウルの現状と沈みゆく国々の噂について興味があったからです。
参加者は男性2名、女性2名の計4名でした。
成田に着くと「この人が参加をするなら、自分は参加をしない」と前々からお断りを入れている人がいて、また、騙されました。
1日目 6月3日
13:55 発 成田 大韓航空 (747-400)747が現役で 驚いた
16:20 着 ソウル (スカイチームのランクがプラチナだったので ラウンジで休憩)
20:05 発 ソウル 大韓航空 (A330-300)
2日目 6月4日
06:50 着 ブリスベン
午前は市内観光。
マウント・クーサ・ルックアウト(高台にあるので、ブリスベン市内の建物や川などが360度見渡せる)→博物館 →美術館 →市庁舎
方々で見られる「ナンヨウスギ」がオーストラリアに来たことを感じさせます。
オーストラリアは4回目だけど、ブリスベンは初めてなので、丁度良かったです。
午後は自由行動。
クィーンズ モール ストリートをブラブラしてアグーのブーツを購入。
そう、季節は冬です。
3日目 6月5日
3時半起床で空港へ。やれやれ、また、早起きが始まった・・・
07:00 発 ブリスベン ナウル航空 (737-300)
機内の後ろ半分は生活物資を積み込んでいた
13:35 着 ナウルの首都であるヤレン地区
(時差 プラス2時間)
ナウルは1968年に国際連合信託統治領(イギリス、オーストラリア、ニュージーランド)から独立をしました。世界で3番目に国土面積が狭い国です。
1942年の第二次世界大戦中に日本が占領し、ほとんどの住民(1200人)をトラック諸島(現在はチューク諸島)に追いやりました。パラオの時のように住民を戦争に巻き込まないようにしたと信じたいのですが、残念ながら、この時は多くの住民が亡くなったそうです。
自分が学校で習った時のナウルは「世界で一番の大金持ちの国」という記憶があります。
リン鉱石の輸出によって国民は税金や公共料金などはすべて無料だと。
ところが、リン鉱石の枯渇により、1990年代後半ごろから経済が破綻状態となり、再建に向けて模索中です。失業率は9割です。
尚、リン鉱石とは鳥の糞や死骸が混ざり合ったグアノが島の土壌や珊瑚と更に混ざり合い、時間の経過とともに出来上がった鉱石のことです。主に肥料として残りは工業製品として使います。
15時半ごろ、ホテル到着
夕食はホテルの中華レストランにて。
4日目 6月6日
午前中は内陸部に入っていきます。
リン鉱石の採掘場(二次層から採掘可能になった) →高台から森の中にある難民収容所を遠望 →アニバレ湾の奇岩
昼食後、15時に観光を再開。
漁港 →町中にある難民キャンプ(そもそもこの国に難民が来ていることなど何も知らなかったので、午前中に見た難民収容所の話には驚きました)
ここは比較的まじめな人たちが暮らす場所。
レバノンから来たある家族にインタビューをすることができた。
家族は5人で、他にレバノン人はあと7名いる。
アパートと水は提供される。
食費と光熱費のみ自己負担。元々はオーストラリアへ行く予定だった。
逃げてきたルートはレバノン ~ カタール ~ インドネシア ~ここからはボートにてオーストラリアまで。
ここにきて2年になる。あと3年はいることができる。
自分たちがまさか、ナウルに連れて来られるとは思いもよらなかった。
逃げてきた理由は「戦争」。難民は1万人もいるとか。
大変な生活状況の中なのに、突然訪問をした我々に対してオレンジジュースを振舞ってくれた。🥹
オーストラリアがナウルに資金を提供していて、これが現在のナウルの経済を支えている。
所謂、難民キャンプ・ビジネスと言われ、世界中から非難を浴びている。
アンジェリーナ・ジョリーも関心を寄せていて、近々訪問をする予定だとか。
オーストラリアも難民が手いっぱいになってきており、オーストラリア行きをあきらめさせるのが目的のよう。他にもイラク、アフガニスタンなどからの亡命希望者の対応がさばき切れていないのが現状のようです。
後記:この人達はどうなっただろうか。心配・・・
再開されたリン鉱石の輸出場所(カンティレバーという貨物船にリン鉱石を積み込むための施設)→日本軍が作った強制収容所 →日本軍が山中湖と呼んだ湖 →大統領官邸
5日目 6月7日
5時起きで空港へ。
08:35 発 ナウル ナウル航空 (737-300)
マーシャル諸島のマジュロ経由
12:30 着 キリバスの首都であるタラワ
キリバスは1979年にイギリスから独立をしました。世界一早く一日が始まる国です。
地球温暖化による海面上昇で水没の危険があり、2007年に当時の大統領は全国民を今後30年に渡って他国へ移住させる計画を発表しました。空の上から見ると確かに水没している様子が見て取れます。例えば、お椀を逆さに置いた形状の土地は中に海水が貯まってきていました。
第二次世界大戦中の1943年11月21日から23日にかけてベシオ島で行われた日本とアメリカとの壮絶な戦闘「タラワの戦い」で司令官が真っ先に殺されたために日本人はほぼ全滅に追い込まれました。
世界遺産としてフェニックス諸島があります。
ホテル到着後14時過ぎから北タラワの観光へ。
マングローブ林(日本人のボランティア団体による植林)→友好の橋(2000年にアメリカ政府の寄付で建造)→ボウタ島 →アバトゥー島
6日目 6月8日
午前中は引き続き島内観光。
国会議事堂(日本の援助で2000年に完成) →大統領官邸 →国立競技場
→タラワの戦いのベシオ島 →ジャパン コーズウェイ
16:00頃、空港へ。
17:30 発 エア・パシフィック航空 (737-800)
20:30 着 ナンディ(フィージーの都市)
男性の一人が姫🍎を持っていたために税関で足止めを食 らいました。フィージーは農産物の持ち込みに対して特 に 厳しいです。
ホテルへ。
7日目 6月9日
4時半起きで空港へ。
07:30 発 ナンディ エア・パシフィック航空 (ATR72-600でプロ ペラ機)
08:00 着 スバ (フィージーの首都)
08:45 発 スバ
11:20 着 ツバルの首都であるフナフチ
飛行機が降下を始めると滑走路の脇に住んでいる人達、老若男女が滑走路に出てきて、飛び上がって歓迎してくれているのが見えました。こういう姿を見ると凄く嬉しいです。
ホテルは台湾の援助でできたところで、空港から歩いて2分。
ホテルの裏側が海でシュノーケリングをしている人がいました。下を覗くと綺麗な熱帯魚がたくさん泳いでいました。
ツバルは1978年にイギリスから独立をしました。標高の一番高い場所でも5mです。
キリバスと同様に近い将来沈むのではないかと心配されているが、実際は「キングタイド」という巨大な高潮が毎年2月におこり、そのせいで洪水が発生するのだそうです。
世界で4番目に小さな国です。
昼食後、散策へ。
ツバル放送局(日本の援助でできた所で中の見学をさせてもらった)
夕食時にマグロのお刺身が出てきたが、二人でシェアするように盛り付けてあったのに私の前に座った男性は全部一人で食べてしまい、あまりにも自分勝手で驚きました。今に始まった事ではないのですが。
私はあまり生魚が得意ではないので、構わないのです。それにしても相も変わらずに他人に対して気を使わなすぎです。この人は食事をする際、肘をテーブルについたまま食べるし、本当に日本人の男性はマナーを知らない・・・
夜、空を見上げていると初めて「ハエ座」と「カメレオン座」が見えて感激。北半球では見られないから。
南十字星は南半球に行くと見られるので、「ああ、又いたね」という感想。
できることであれば「石炭袋」も見たかったが、残念、肉眼では無理でした。
8日目 6月10日
朝食後、近所の散策へ。
教会 →スーパー(輸入品多し)→市役所 →小学校
→刑務所 驚くことなかれ、建物の周りには塀も門もない。ただ、レンガを積んだパーテーションのようなものがあるだけなので、ズケズケと入っていくと二人の受刑者がいてお互いにビックリ。先方もいきなり、東洋人が入ってきてさぞや驚いたことだろう。
ここには13名が収容されているそうで、一人の人にインタビューをすることができた。確か傷害罪だった気がする。
逃げるのは簡単だが、こんな小さな国ではすぐに見つかって余計に罪が重くなるであろう。
昼食後、散策続行。
ハリケーンで沈没した漁船 →貿易港 →島の北端 →滑走路でのエリザベス女王誕生祭のリハーサルの様子(実際の誕生日は4月だが、イギリス連邦の国では公式の誕生日が別の日に定められている)
夜は女王誕生祭が空港前で行われました。
ホテルに戻る途中で荷車を引いている人に「タコの木」別名パンダナスの実を分けてもらいました。甘くておいしかったです。日本でも沖縄あたりにいくと頻繁に見られるが、まさか食べられるとは思いもよりませんでした。
9日目 6月11日
午前中は自由行動。
12:05 発 フナフチ エア・パシフィック航空
14:35 着 スバ
18:00 発 スバ エア・パシフィック航空
18:30 着 ナンディ
ホテルへ。
10日目 6月12日
09:55 発 ナンディ 大韓航空 (A330-200)
17:35 着 ソウル
18:35 発 ソウル 大韓航空 (747-400)
20:55 着 成田
今回は行かなければ知らなかった難民ビジネスの話と塀のない刑務所にはビックリしました。3か国共にコバルトブルーの美しい海は国の宝だと思います。
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