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グジャラート(西インド)
(102番) 2019年 10月
グジャラート州(西インド)へ行ってきました。
今回はガンジー生誕150周年を記念したコースで、デリー以外は初めてなので、楽しみでした。グジャラートはインドでは珍しく禁酒の州です。
参加者は8名でした。
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1日目 10月16日
✈ 11:15 発 成田: エア・インディア(787-8)
17:00 着 デリー
成田へ着いたら、見慣れた光景ではなく、とても殺風景な景色が広がっていた。あちこち工事を行っており、第2ターミナルの日本航空のチェックインカウンターは、自動荷物預け機の設置をしていた。
2011年に行った北欧では既にそれが設置されていたので、日本もやっとこの日が来たかと・・・
{インド共和国}
面積: 328.7万㎢
人口: 13.8億万人(現在は14.4億人で中国を抜いて世界一)
首都: ニューデリー
民族: インド・アーリヤ族、ドラビダ族、モンゴロイド族等
言語: 連邦公用語はヒンディー語、他に憲法で公認されている州の言語が21言語
宗教: ヒンドゥー教徒79.8%、イスラム教徒14.2%、キリスト教徒2.3%、シーク教徒1.7%、仏教徒0.7%、ジャイナ教徒0.4%
空港で出迎えてくれたガイドさんを見てどっかで見たことがあると思っていたら、3年前に他社で南インドへ行った時の人でビックリ。
そのガイドさんも私を覚えていて、その間に数多くの日本人を見ているだろうに、職業柄なのか記憶力がいいなと感心。(多分、社交辞令・・・)
ガイドさんの説明によるとIndependent Nation Declared In Augustの頭文字をとってINDIAと命名されたとか。
ホテルへ
🏨 アショカ・カントリー・リゾート
いつものおんぼろホテルで、バスタブに水を溜めたら脇の方から水が勢いよく出始めて大慌て・・・
2日目 10月17日
✈ 05:00 発 デリー: エア・インディア(A321)
06:30 着 アーメダバード
朝1時起床で、「聞いてないよ~」だったが、機内食が美味しかったので寝ぼけ眼も解消されたかな?
アーメダバードは、インドの7番目の都市で人口は550万人。
2020年に日本の技術でアーメダバードとムンバイの間で新幹線が開通する予定・・・だったのだが、それが延びて2022年の完成となっている。日本がオリンピックの準備で忙しくて、人手が足りないらしい。
(後記)
新型コロナの影響もあり、更に工事が遅れて完成予定は2026年だそうです。
空港のターンテーブルの所にある掲示板には、グジャラート出身のインド独立の英雄、サルダール・バラブバーイー・パテルの銅像の写真があり、実際のその高さは世界一の182mだとか。
着後、アーメダバード市内観光へ
→アダーラジ・ヴァーヴ (階段井戸)
これは井戸の底の水際まで階段で降りて行かれるようになっている場所で西インドでは特に多い。
1499年に、イスラム教の王、マホメット・ベグダにより、ヴカラ王朝(ヒンドゥー教)の族長、ヴィア・シンの妻ルダバイ王妃のために建設された。
南北70m、東西25m、地下の深さは20m。
5層うち地下は3層となっていて内部のいたるところに繊細なレリーフがほどこされた宮殿のような井戸。ガネーシャも祀ってある。
言い伝えによるとヴィア・シンがマホメット・ベグダによって殺された後、ルダバイ王妃に求婚をした。王妃は建設中であった階段井戸の完成を条件にそれを承諾した。
完成したその日に王妃はその井戸に身を投げ、亡き夫のもとへと旅立った。命にかえても井戸を完成させようとしたルダバイ王妃は、今でもこの地の人々に深く愛されている。😢
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→ガンジー・アシュラム (独立運動の拠点の一つ)
マハトマ・ガンジーはアーメダバードには、1915年から1930年まで暮らした。
マハトマとは「偉大なる魂」と言う意味。
この家は運動を指導した場所で大きな川べりに建っており、現在は資料館となっている。
ここは1930年3月12日に「塩の行進」をスタートした場所で、ここから同州のガンベイ湾まで24日間かけて340kmを歩いた。
ガンジーとその支持者達が行進した抗議行動でイギリスからの独立運動の転換点となった。英国の植民地支配における塩の専売制に抗議するためであった。
とても質素で、お付きの方の建物は平屋建ての一部屋に半分が男性一人、片方をカーテンで仕切り女性二人が住んでいた。
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ガンジーは1869年10月2日に、グジャラート州にあったポールバンダル藩王国の宰相の家に生まれた。英国で学び、弁護士になったが、その裏には彼に勉強をさせる為に二人の兄が一生懸命働いて学資を作ったという美談がある。
しかし、ガンジーの4人の息子は意見が合わず、どこに行っても一緒に写った写真は残っていない。
17世紀、オランダが南アフリカを植民地とした。
19世紀、産業革命後のイギリスは南アフリカに埋蔵される金やダイヤモンドを狙ってボーア戦争を仕掛けた(1899-1902年)。
ガンジーはイギリス部隊の一員として参戦。銃弾の飛び交う戦場を走り回り、命がけで負傷者を救援した。その時に人間同士が殺し合い、人間の尊厳が損なわれて行く不条理を深く嘆き、暴力否定の考えを確たるものにしたのである。
南アフリカで22年間弁護士として活動をしたが、そこはアパルトヘイト(人種差別)の国であった。
ガンジーが南アフリカへ渡った1893年頃、多くのインド人が移民労働者として働いており、インド人に対して不条理である強制的指紋登録制などが実施されていた。彼は人種差別と移民排斥政策はインド人の基本的人権を侵害する問題であるとの義憤を抱く。
例えばガンジーは客車で旅行をしていて、突然、貨物車に強制的に移されたりして屈辱的な扱いを受けながら、インド系の人々に対する差別廃止のために戦い、何度も逮捕され投獄された。
インドを英国から独立させようというガンジーの決意は、ここで芽生えたのである。
1915年、46歳のガンジーはインドに帰国した。その1年前の1914年、第一次世界大戦が始まった。英国はインドに自治権を与えることと交換にインド兵を徴用した。
しかし、大戦後、英国は自治権の供与を渋ったので、インド人の独立への願望はさらに強まった。
ガンジーは武闘には走らず、「非暴力、不服従」を唱え、英国植民地政府による投獄や弾圧を受けながら、国民的な運動へと盛り上げ、1947年ついに独立を果たした。
しかし、翌年1月10日にヒンドゥー教とイスラム教との融和を目指すガンジーを嫌うヒンドゥー教原理主義者によって暗殺された。
🚌 ラージコートへ (4時間)
🏨 インペリアル パレス (食事もおいしいし、なかなか良いホテルだった)
3日目 10月18日
ここはクジャラートで4番目の都市。
ここにガンジーは2歳から22歳まで住んだ。
→ガンジー・ハウス (ガンジーのお父さんの家)
オートリクシャ―に分乗をして行ったが、運転手も入る脇道を間違えるくらいこぢんまりとした家だった。
門を入ると左側に壁があってヒンドゥー語でガンジーの最後の言葉である「ヘイ ラーム=おお、神よ」と書いてある。
見学をしていると時々、ガンジーが女性と一緒に写っている写真がある。
サロジニ・ナイドゥと言い、独立運動期のインドを勇気づけた詩人であるとともに、独立インドの女性政治家の草分けで、インド国民会議議長を務めた最初のインド人女性。
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→ワトソン博物館
1888年に創立された。
ジョン・ワトソンというイギリス軍大佐だった人が個人的に収集した物(肖像画や彫刻、人形や当時の武器など、歴史的にも価値ある品々)が展示されている。
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→スワミ・ナラヤン寺院
1907年創立、よくあるトウモロコシの形の寺院で、クリシュナ、スワミ・ナラヤン、アルジュナが祀られている。柱や壁面にはヒンドゥー教の神々が彫られている。それぞれの建物の上には旗がはためいていて、余計に立派に見える。
高さ43m(マンションでいえばおよそ13階)という圧倒的な大きさで、世界最大のヒンドゥー教寺院としてギネスブックにも登録されている。
しかも、これだけの大建築物でありながら、コンクリートや金属が一切使われていない石造りだというのだから驚く。
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🚌 ブージヘ (約5時間)
🏨 カッチ・サファリ・リゾート
口コミを事前にネットで調べてみたが、なかった。旅行会社のうたい文句ではデラックスホテルとあったが、案の定、契約違反に値する程のおんぼろホテルであった。
歩いている時もずっとタブレットを見ているメンバーの一人(多分、私よりも年上)がいて、何か資料の検索でもしているのかなと思っていた。
聞いてみると、「ポケモンGOをしているの」ガクッ・・・
でもこういうゲームってボケ防止になると聞いたことがある。
4日目 10月19日(39度)
ブージは2001年に震度7か8クラスの大地震があって、町全体が無くなった。
移動中のバスの車窓から見えたが、郊外にはかなり大きな城塞が残っていて、15世紀の物らしく、観光コースに入っていないのが不思議なくらい、りっぱであった。地震で崩れていないのも不思議。
少数民族の村にて伝統工芸の見学と裁縫体験
① サンマルスール村にてパトラ織を見学
伊予絣や琉球絣などの起源。ここで織られた絣はタイ、インドネシア、そして琉球へと渡り、日本各地に分布することになった。
パトラ織は非常に高度な技術を要する為、完全なオーダー制で、サリー1枚の布で車が1台買えると言われるほど高価。
まず、糸を染め、糸を紡ぎ、布を織る様子を見学したが、本当に細かい作業で彼らも誇りをもって作品を作り上げていくのが分かった。
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② ニローナ村にてローガン・ペイントを見学
代々受け継いでいるガルファ家を訪問。400年前から伝わる技法を受け継いでいるのは今やこの一家のみ。
ヒマシ油と顔料を混ぜて絵を描き、反対側に折ると同じ絵柄が移ると言う画法。この絵の具は油性なので、水にも日光にも強く、色落ちしない。
モディ首相が訪米をした際に当時のオバマ大統領にプレゼントをしたことでも有名になった。同じものを見せてもらったが、大変すばらしい絵だった。お手頃価格の物を一つ購入したが、今でもリビングに飾ってある。
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③ ダネティ村にてミラー刺繍の見学
アヒール族が綺麗な刺繍をしている様子を見学。
女性達も自分が作った豪華な民族衣装を着ている。
特に鏡を縫い付ける手法を見ることができて、はずれないようによく考えているなと感心。
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④ 村の名前は不明
ここも代々受け継ぐ鉄製の工芸品を作る工房(Jumar & Kichan)で、おじいちゃんが一つのベルを最初から作る様子を見学。
とても力強く打ち付けるので、おじいちゃんの握力を一度測ってみたいと見学をしながら思った。
鳥の下にベルが二つぶら下がっているお土産を買った。ベルの音はとても心地よい響き。
この辺りは野鳥の楽園で田舎に来れば来るほど、その種類も多種多様で感激!特にカワセミの種類が多く、トキの種類も見られた。
ガイドさんに「バード・ウォッチング」のツアーをやっているのかと聞いてみたが、やってないらしく、会社に企画するように伝えておくとの事であった。
ドライバーさんが高速料金を支払う時に、ふと見ると係の人の椅子の背もたれの上にスズメがちょこんと乗っかっていて、係の人の方をやたらと見ている。
我々の料金を受け取るとその係の人はスズメに向かって
「おはよ~♪ 今日もいい天気だね~♪」とでも言っている感じで、とっても微笑ましい光景であった。
鳥が人間を怖がらない様はいかに動物を大事にしているかを表していると思う。
⑤ 村の名前は不明
最後に木製の麺をこねる棒や料理用のスプーンなどを作っている様子を見学。とても貧しい村だそうで、インドの高校生達も見学をしていた。
ただ削るだけではなく、自然界の物を使ってころころと棒を回しながら器用に色を付ける。棒でデコボコした形の物はマッサージに使えそうなので、買いたかったが、いかんせん数がなかったので諦めた。
🚌 塩砂漠へ (約2時間)
→白亜の塩砂漠と夕日鑑賞
パキスタンとの国境が近い為、入り口でBSF(国境警備隊)の人が我々のパスポートをチェックした。
2008年11月に起きたムンバイ同時多発テロ事件は、テロリスト達がカラチから船で途中まで来て、インド人の船を乗っ取りムンバイまで来たとか。
肝心の塩砂漠は10日前に降った大雨の影響で一面が海のようであった。
ここで、夕日まで待つのは意味がないと判断をして早めにホテルに帰った。
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Y社のサイト
砂漠付近にはリゾート風のホテルがたくさん建っていて、シーズンになると混雑しそうな気配。
🏨 同上 (明け方、水が出なくて困ったし、そもそも水は塩水で石鹸が泡立たない)
5日目 10月20日 (35度)
🚌 ロータルヘ (約7時間)
→ロータル (古代都市遺跡)
紀元前2,600年前頃栄えたモヘンジョダロやハラッパと並ぶインダス文明の重要な遺跡。
この古代都市の特徴は造船所で、水門を開いて海から船が入れる水路があり、水門を閉じて積荷を降ろすという仕組みがあった。
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現在は海から80kmほど内陸に入った場所にあるが、当時は7kmしか離れていなかった。メソポタニア文明の民と交易していた。
先月、コチでヴァスコ・ダ・ガマの遺体が安置されていた聖フランシス教会の話をした。
同じ頃、オスマン帝国によってポルトガルの勢力がインド洋、さらには東南アジアへと伸びようとしていたのを阻止しようとした。
1538年、スレイマン1世の艦隊はスエズ地峡から出航して紅海を南下し、インド洋に出て、インド西部のイスラム勢力の中心地・グジャラートに向かった。この地でのポルトガルの圧迫を排除するためだった。
しかし、オスマン艦隊は勝利を得ることはできなかった。スレイマン1世は、以前のようにインド洋におけるイスラムとの通商を復活させようとしたのだが。
こういう事からもロータル遺跡は交易の場所として重要な役割を果たしてきたことが分かる。
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🚌 アーメダバードへ戻る (約2時間半)
ドライバーさんはこの日11時間も運転をしたが、アーメダバードは自宅があるので、ゆっくり休めるとの事でほっとした。
🏨 フェアフィールド・バイ・マリオット(ま、いたって普通のホテル)
6日目 10月21日 (35度)
🚌 パタンへ (約2時間半)
→ラニ・キ・ヴァ―ヴ (女王の階段井戸)
世界遺産で2014年に登録された。
1050年にパタンのウダヤマティ女王の命により王の記念碑として建造された7層構造の井戸。64mの長さ、20mの幅、27mの深さ。
階段井戸はインド亜大陸における地下水資源を利用した貯水システムで、井戸の底の水際まで階段で降りていけるという独特の特徴をもっており、階段の壁面は美しいレリーフによって装飾されている。階段を下りると正面にヴィシュヌ神が珍しく横たわっているレリーフがある。
宗教と神話、俗世が混在したイメージで描かれた彫刻の数は大小1,500以上に及び、寺院としての役割も担っている。度重なる洪水によって数世紀にわたり、土砂で覆われていたこともあって保存状態はきわめて良好で、高度な地下水管理システムも高く評価されている。新しい100ルピー札の裏に印刷されている。
入場料はインド人40ルピーで、外国人は600ルピー。
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🚌 モデラへ (約1時間)
→太陽寺院
8月に行ったオリッサのコナーラクにあるスーリヤ寺院と並ぶ太陽寺院の一つ。ソランキ王朝のビームデーヴ一世によって1026年に建設された。
彼は自らを太陽神の子孫と考えていて、寺院は、春分・秋分最初の太陽光線がスーリヤ(太陽神)の像にあたるように造られている。その太陽神はコナーラクの像と比べるとやや小さめだ。
本殿には7頭の馬車に乗るスーリヤ神の彫刻(7=1週間の日数)、12ケ所の壁龕(へきがん )(12=1年間の月数)がある。
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52本の柱で支えられた柱廊は、会議や踊りの間として使われていた。(52=1年間の週数)。なるほど、すべてが太陽の動きに関係しているのか・・・
その柱には2大叙事詩であるラーマ・ヤーナやマハーラ―バタの場面が彫刻されている。入場料はインド人25ルピーで、外国人は300ルピー。
ここには階段池というものがあって、108個(煩悩の数?) の祠が階段上に作られている。緑色の池には亀がたくさんいた。
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🚌 アーメダバードへ。 (約2時間)
🏨 同上
ホテルへ戻るとお部屋の掃除がされていなかった。
ホテルに併設されているお店で洋服を見ていると破れている個所があったので、「要らない」と言うと「これはデザインだ」とシャーシャーとのたもうたので唖然とした。ここまで人間、強欲になれるもんなんだ。
7日目 10月22日
✈ 07:10 発 アーメダバード: エア・インディア(A321) 08:45 着 デリー
着後、デリーの市内観光へ
→ガンジー暗殺場所
→ガンジー博物館
→ビルラー寺院 (ラクシュミ・ナラヤン寺院)
上記3カ所の説明は過去に記載しているので省略。
→ショッピング・モール
→いつもの紅茶屋さん
顔なじみの店員さんに会うのを楽しみにしていたが、本日はお休みとの事であった。
昼食もいつものお店で、まずい中華料理ではなくインド料理(タンドリーチキン)だったので、よかった。
🚌 空港へ
✈ 21:15 発 デリー: エア・インディア(787-8)
成田行きの待合室で待っていると、白装束の団体がゾロゾロと座り始め、おまけに歌まで歌いだす始末。
ひえ~!この人達皆、日本へ行くのかなと思って、聞いてみるとスリランカから来ていて、コロンボへ帰るのだとか。ホッ・・・
パンフレットを見せてもらったら、仏教徒なので8大仏跡巡りをしてきたらしい。私も行った事があるが、とても勉強になったのを覚えている。
8日目 10月23日
08:45 着 成田
{結び}
今年は7月、8月、9月と10月の連続してインド旅行となりました。
11月も予定をしています。
1987年に初めてインドへ行き、あまりのカルチャーショック(汚さ)で2回目に行ったのはそれから23年後でしたが、今になってインドにはまっております。スパイシーなカレーも美味しいです。