グアム
(103番) 2024年 12月
グアムへ個人で行ってきました。もちろん、先月のサイパンに引き続き「戦跡ツアー」に参加する為です。
12年ぶりの訪問で、その時はパラオに行くためにミクロネシア連邦のポンペイ島発でトラック島にて乗り換えてグアム到着というルートでした。
一応ホテルには宿泊したものの、隙間時間に「恋人岬」へ行ったのみです。
なので、初めてのようなものです。
ここはコロナ前までは年間70万人もの日本人が訪れた人気の観光地だったのは周知の通りです。
若い人ばかりではなく、小学校に上がる前までのお子さん連れか、私のようなシニアがほとんどで、その間の中間層は少数でした。
便利な赤バスに乗ってもベビーカー持参であんな小さな子供連れで旅行するのは大変そうでしたが、今の若い世代は恵まれているなあと・・・
{グアムーアメリカの自治領}
面積: 550㎢
人口: 約16万人
主要都市: アガニヤ
民族: チャモロ人が40%
言語: 英語、チャモロ語
宗教: キリスト教
歴史: グアム政府観光局より一部抜粋
① 紀元前~1500年(古代チャモロ時代)
この諸島は4千年以上前、おそらくは東南アジアの島から渡来したインド・マラヤ系民族が最初に居住した場所のひとつだった。
古代のチャモロ人は漁師としても職人としても優れ、自分たちの生活環境に適した独特の住居やカヌーを造り、また複雑な織物や手の込んだ陶器の製作に も通じていた。
また強固な母系社会を形成しており、女性の権力と特権によってチャモロ文化の大部分、言語・音楽・舞踊・伝統などが守り伝えられてきた。
② 1565年~1898年(スペイン統治時代)
グアム島が初めてヨーロッパと接したのは1521年3月6日とされている。
それは世界一周の航海の途にあったマゼランがグアム島を発見し、ウマタックに上陸したことがきっかけだった。
マゼランはスペイン国王の命による世界一周の航海中、3隻の船団を修理するために3日間、グアム島に立ち寄った。そこで新鮮な果物や野菜や水を島から調達したマゼランはその対価として鉄を島民に与えた。まだ新石器時代のような暮らしをしていたチャモロ人に とって、鉄は大きな値打ちを持っていた。
③ 1898年~1941年(アメリカ統治時代)
1898年スペイン軍によるアメリカ戦艦の沈没をきっかけに米西戦争が勃発した。
スペイン領であったグアム島もアメリカ海軍の砲撃を受け、同年アメリカによって占領されることになった。
アメリカ海軍による統治は農業、保健衛生、教育、土地管理、税制、公共事業などに数々の変革や改善をもたらした。
グアム島はアメリカ海軍の石炭補給および通信連絡の拠点として使用されていたが、
1941年12月8日の真珠湾攻撃から3時間半後に侵攻してきた日本軍の手に落ちることになった。
④ 1941年12月~1944年8月(日本占領時代―2年7か月)
その後31ヶ月間にわたった日本の占領時代に島民は日本の生活習慣を強要されることになったが、チャモロ人の住居の自由は保証され、住みたい場所に住むことができた。
⑤ 1944年7月21日早朝、アメリカ軍がグアム島のアサン海岸とアガット海岸に艦砲射撃で攻撃を仕掛け、その後上陸をした。
400隻の軍艦と5,500人の陸海両軍で青隊、赤隊、黄隊の順にシャーマン・タンクという最新鋭の戦車で上陸をしてきた。この戦車の壁は厚さが5cmもあったので頑丈にできていた。
生き残りの兵士さんの言葉によると海が軍艦などで真っ黒だったとか。この光景を見て「勝てない」と瞬時に悟ったそうだ。
アメリカ軍は上陸をしたものの、一端引き上げて行った。これも戦略の一つだったのだ。日本軍は夜襲攻撃をかけたが、一瞬にして壊滅状態にされた。
この頃になると玉砕攻撃は禁止とされた為、大本営からは持久戦の司令が届いた。その間に、必要な武器を揃えたり、隊列を整え直したりする時間が必要だったのだ。
しかし、その間にも病気になって死んだり、毒入りの野菜やフルーツを食べて死んだり、餓死したりする兵士も多かった。
最後の激戦地となった又木山 戦闘司令部壕跡の前には、下記のような看板が立てられている。1944年8月11日未明、第31軍司令官の小畑中尉は、「己れ身を以て、太平洋の防波堤たらん」と大本営に対し、決別の辞を打電し、この壕内にて60余名の将兵と共に集団自決をした。
数千人ものチャモロ人、米兵、日本兵の命を奪った3週間に及ぶ激戦の末、グアム島は平静を取り戻し、再びアメリ カの統治下に入った。
参戦したアメリカ軍の兵士は約5万5千人(戦死者は2,100人)
で日本軍は約2万人(戦死者は約19,000人)
アメリカ軍の次なるターゲットはフィリピンで、まずは船の重要なルートであるパラオのペリリュー島への砲撃を800隻の軍艦によって始めたのである。
⑥ 1950年にアメリカの自治領(準州)となり、今日までアメリカ軍の太平洋戦略上の基地として活用されている。
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1日目 12月17日
✈ 10:00 発 成田: 日本航空(767-300ER)
14:35 着 グアム
飛行機に乗り込む際、通常はパスポートと搭乗券と顔をスタッフが照らし合わせて行うが、今回は入口にある機械にて顔認証だった。遅ればせながら日本でも少しずつ、変化を感じる。
空港に到着後、手配しておいた車でホテルまで送ってもらった。
値段の安さにつられて良く調べもしないで選んだホテルで、ガックリ。
バスタブはあるが、栓がなかった。
湯沸かしポットは中の金属が腐食しており、これは体に悪いと思って、フロントに変えてほしいと言うと、あまり変化のない物と交換されたので、使わなかった。
TVも途中でプツンと切れるし、WiFiも途切れ途切れで使い物にならなかったし。まあ、スタッフの人達はとても感じが良かったが。
2日目 12月18日
終日、自由に時間が使える。個人旅行のいい点だ。
なので、赤バスに乗って「グアム・プレミアム・アウトレット」へ行ってきた。
午後には逆方向にある「マイクレネシア・モール」とショッピング三昧の一日となった。
大きなホテルにも立ち寄ってお客さんをピックアップするので、見ていると「ほお~」と驚くような立派なホテルが所々にあり、次回の参考にすることにした。
ラスベガスに行った時、近くにあった「ROSS」というお店でアメリカのブランド商品が格安で売られていて、今回も主にそちらを狙って行った。クリスマス・セールなどを開催しているかなと期待して行ったのだが、特にそういう事もなく普段のままだった。
3日目 12月19日
本日は、今回の目的である「戦跡ツアー」の日で、朝、9時過ぎにピックアップしてもらった。
ケン芳賀さんというグアム在住25年の戦跡ツアーのベテランさんが案内をして下さる。
参加者は5名だそうで、あと2か所のホテルでピックアップするそうだ。
一つ目のカップル(30代?)は、指定の待ち合わせ場所にいなくて、違う場所で待っており、何だかコミュニケーションがうまくいっていない。
二つ目のカップル(40代?)は、そもそもがホテルを変更しており、こちらもコミュニケーション不足だった。
→旧日本軍 トーチカ防御陣地跡
パセオ公園の海沿いにひっそりと佇む。
「トーチカ」という言葉はロシア語で「小さな火」という意味そうだ。
そう言えば思い出したことがあって、サハリンへ行った際、熊笹峠(ホルムスク峠)にはいくつかの日本軍のトーチカが残されていた。
その時に、ロシア語だと聞いた気がするが、すっかり忘れていた。
長四角の窓は「銃眼」と言う。そこから銃で敵を打つのだ。
因みにお城は「狭間=さま」と言うが。
→旧日本海軍 作戦司令壕跡(ハガニア)
暗いので、懐中電灯で照らしながら入ると迷路のようになっている。
当然か・・・
今は出口が解放されているが、ここで煮炊きをしていたそうで、「空気穴や煙を出す穴はどうしていたのか」と聞くと出口はあのまま開いていたのだとか・・・
周辺はうっそうとした植物が育っており、パパイヤの木もあった。
地下水を貯めていた穴も残っている。
→グアム鎮魂神社
2017年9月グアム政府庁舎敷地内に建立された神社。
すぐ傍の丘の上にはグアム知事の家と執務室がある。
「ひたすら『国安かれ』の一念のもと、国を守るために尊い生命を捧げられた方々の神霊をお祀りする神社を目的に建立された。
建立には複雑な手続きはもちろん、渋る人達もいて、最終的にはある人の一言で決まったとか。それは「戦争で亡くなった人の魂を弔うのに、宗教の違いなどあってはならぬ」
ここには「高角砲」45口径10年式12cmが残されている。これは海軍が使用したもので、船を撃つのが目的なので、海に向かって立っている。射程距離は4~5kmだとか。
因みに「高射砲」は陸軍が使用する。
→アサン展望台
グアム南西部にある絶景スポット。
ここで、ガイドさんがある高校生たちの修学旅行のグループ240名(一度ではなく、何度かに分けて案内)をした時の話をしてくれた。
今時の高校生たちは茶髪だし、いろいろと服装も変だし「なんじゃ、その格好は」と内心思っていたのだそう。
説明が終わったら、全員が海に向かって「兵隊さん達、有難う御座いました!」と叫んだのは大変うれしかったと。😢
そこで、「さんぱち式の弾」とアメリカ軍が使っていた弾の比較を見せてくれた。どうして「さんぱち」と言うか、それは明治38年製だから。
こんな古い武器で戦えるわけがない。
グアム島のジャングルで戦後28年間も潜伏していた横井正一さんも小銃弾が30発しかなくて、5分そこいらでおしまいだったと・・・
「何故、日本は負けたと思うか」という質問には「武器がなかったから」と答えている。
→ガアン・ポイント(太平洋戦争国立歴史公園)
公園だけあってとても広々として静かな所。戦争当時はココナツの木が生い茂っていた場所。
→南部展望台
ここからはだだっ広いジャングルが広がっており、横井さんが潜伏をしていたフィナ湖方面も見える。
「横井ケーブには行かないのですね?」と聞くと
「あれは観光用に造った偽物で、場所も全く違うし」との事だった。
一応、そういう事は事前に調べて知ってはいたが、観光用に一儲けをしようとする意図が垣間見られて余計にゲンナリ・・・
因みにそれを作ったのは日本人ではない。
横井さんは戦争が終わったというよりも日本が負けたという事は飛行機によってばらまかれたビラによって知ったとか。
兵士たちはそういう物を信じてはいけないと「戦陣訓」という教えによって教育をされていた。しかし、必ず、助けが来ると信じていた。
28年間の潜伏期間のうち、だんだんと仲間が亡くなっていき、最後の8年間は一人ぼっちになってしまった。
それでも潜伏していた理由は日本軍が島民に対して酷い事をしてきたので、仲が悪く、見つかると殺されるから。
ところが、1972年の2月に潜伏先から5mの場所で地元の鹿狩りのハンター二人に見つかり、もみくちゃとなった。一人は殺すつもりだったが、もう一人がそれを止めた。
何故なら、とっくの昔に戦争は終わっていたから。
28年近くもジャングルでサバイバル生活を送っていた横井さんは56歳になっていた。
同じ年、日本に帰国した際の会見では「恥ずかしながら、生きながらえておりました」と。
この「恥ずかしながら」という言葉は当時のブームのようになった記憶がある。
横井さんは頼まれて色紙を書くことがあったが、よく書いた言葉が
「今日=こんにち無事」。
「何事も起きない一日がどれだけ幸せな事か」と言い続け、
1997年9月22日、永眠。
享年82歳で帰国後、25年の生涯だった。
→ガイドさんのご友人宅
訪問した際、2匹の真っ黒な大型犬がワンワン吠えて大歓迎をしてくれた。
若夫婦のご主人が「怖いんだけど・・・」と言うと奥さんの方が「マジで?」と言ったのが可笑しくて、かわいい夫婦だなあと。
犬の行動は詳しくはないが、多分、犬たちもご主人様の手前、ああやって吠えてちゃんと警備をしているんだという素振りを見せているのだと思う。
すぐに吠えるのをやめて尻尾を振りながら、優しい顔で我々に近づいてきたし。
何でも「ノニ」を世界で初めて商品化させた方らしく、庭のノニの木も大木で驚いた。あちこちで見たことがあるが、通常自分の背丈ほどしかない。
現在は引退されている。
モンキーバナナとサワーサップなどのお土産を頂いた。これは南の温かい国へ行くとよく見かける。
→エメラルド・バレー
ガイドさんが秘密の場所に連れて行きましょうと言った場所。
とても綺麗なエメラルド色をしている運河で吸い込まれそうだ。すぐ傍にあるダムの装置の一部を冷却するために作られたそうだ。たくさんの熱帯魚がいて見ていて飽きなかった。
ホテルに戻ってきてから、そう言えばビーチに行っていないことに気が付き、散歩をしてきた。
4日目 12月20日
✈ 16:35 発 グアム: 日本航空(767-300ER)
19:25 着 成田
Wow! そのⅠ😮
グアムの空港に着いてチェックインを済ませ、いざ、2階にあるセキュリティ・チェックを受けようとエスカレーターで登っていくと、物凄い人が並んでいて、折角上まで行ったのに結局階段で下まで降りて並ぶ羽目に。ほとんどが韓国の人達だった。
Wow! そのⅡ😮
成田に到着して、検疫まで歩き始めるとこれまた、とてつもない長い行列で「な、なに~、これ~」状態。しかも折れ曲がっているし。
仕方がないので、並んだが、途中で整理をしているスタッフがいたので、「これは何の行列ですか」と聞くと「あ、日本人の方はそのままお進みください」との事で解放された!
いや~、これが現実だった。訪日観光客が増えているとは知っているが、これほどまでとは・・・
イミグレは日本人専用の機械で手続きができるので、簡単だが、最後の税関で又、並ぶ必要があった。
因みに税関の申告書も事前にウエブから申請ができるようになっている。
――――――――
{結び}
そもそも私が戦跡に関心を持つようになったのは、世界中を旅していくうちに、あちこちで戦争の爪痕を見るようになり、「人間て何と愚かなことをするのだろう」と疑問に思うようになったからです。
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